仏とは何か? 阿弥陀仏とはどういうものなのか?
という質問を受けた。関係の辞典を引いてみると、益々混乱してくる。
ちょっと前書き
その前に「仏」をホトケと呼び始めたのは、どうやら物部守屋(もののべのもりや 弓削守屋とも ?~587)という人であったという。この人は神道派であり、政治的に対立していたのが、仏教擁護派の蘇我馬子(そがのうまこ=?~626?)や厩戸皇子(うまやとのみこ 後に聖徳太子と呼ばれる 574~622)であったという。
585年3月、疫病流行の際、蘇我馬子の礼仏のゆえであるとして、廃仏毀釈を行ったのであるが、親鸞聖人の残されている『正像末浄土和讃』や『皇太子聖徳奉讃』(和讃)や『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』(和讃)の中に書き残されている。(岩波文庫『親鸞和讃集』というのがある)
585年に流行した疫病はどうやら熱病の一種であったらしく、善光寺の仏像を浪速(大阪)に持ってきて蘇我が礼拝したからだということで、熱病=身体が火照る(ほてる) ということから、仏像を「ほとほりけ」(火照怪)と呼んで、浪速の海に捨てたという。日本にとって仏像とは異国の神という概念があったと考えるのである。
やがて「ほとほりけ」というのは言いにくかったのだろうか、略して「ほとけ」と呼ぶようになったという。そんなことも、親鸞著の和讃の中から知ることができる。
親鸞さんは仏のことをホトケとは呼ばず、ほぼ必ずといって良いほど、著作物のなかでは{ブツ}と読んでいる。これに対して、親鸞の妻であるという恵信尼の残している『恵信尼消息』では{ホトケ}と読んでおり、蓮如さんの著物に至っては「ホトケ」という呼び方がたくさん出てくるのである。
おまけに時代が下がって来れば来るほど「ホトケ」という呼び方が浸透し、落語の中でも「大川端からホトケさんが浮いた」という使い方がされ、その浮いた「ホトケ」さんとは、つまり溺死人のことをいうようにもなった。そして、人が亡くなると「ホトケさんになった」というようにもなってきた。
仏像の出現
仏教では厳密には仏は「ブツ」であって、「ホトケ」とは言わないのである。
インドで釈迦が仏教を説き、やがてガンダーラ地方へ伝搬したときに、その地を支配していたカニシカ王の庇護を受け、キリスト教の影響も受けたのであろうが、大乗という考え方が起こり、そして初めて仏像や仏画というものが表されてきた。仏教は本来は偶像崇拝ではなかったのである。
なにゆえ仏像や仏画が描かれていったかというと、それは私たち人間にとって、教えというものを視覚的に具象化しなければ理解しにくかったからである。
教えや仏教の示す真理を視覚として具象化することによってより理解し易いことになったのではあるが、反面、それらの具象化された物体に力が存在するという偶像崇拝に傾いていったことも否めないのである。
仏教の経典は、多くが譬喩を用い、物語として展開しているものが多いのである。そしてその中に、出てくるのが多くの仏(ブツ)なのである。仏を如来とも呼ぶが、これは如(真理)が私たちの方に向かって「はたらきかけてくる」から来であるという。みんなが知っているのは薬師如来、大日如来、阿弥陀如来という仏の名前であろうし、また、観音菩薩などもみんなが知っている名前である。
なぜこんなに仏が多いのかというと、それはつまり、私たちの迷いの数だけ仏として具象化されているということ、言い換えれば、私たちの願いの数だけ仏が存在せねば教えを展開することが難しかったということになる。
なぜ難しいかというと、それは教えそのものが難しいのではなく、聞く方が、耳をふさぎ目をふさぎ、受け入れようとしない頑なな拒絶反応を起こすからである。なぜ拒絶反応を起こすのかというと、「自分にとって都合の悪いことは受け入れたくない」ということ。言い換えれば「自分さえよければそれでいい」というのが人間の持つ根底の浅ましき根性だからである。仏教が難しいのではなく、己の根性が難しいのである。
仏とは
阿弥陀仏は、「10万億の国の向こう、遙か西の世界におられて、今も説法をつづけておられる」と『阿弥陀経』に書かれている。この表現は、先にも述べたとおり、あくまでも譬喩なのである。10万億も遙かな西の世界というのは、真理を到底容易に受け入れようとしない私たちの根性の非素直さの深さを表現したものである。真理を素直に受け入れた者にとっては、阿弥陀仏は常に我が身に寄り添うのだという。
仏とは「私たちに迷いの世界から目覚めさせてくれる真理が譬喩の形で表されている」ということになる。阿弥陀仏は無量仏ともいう。つまり、「はかりがたき命の目覚め」ともいえる。
私たちは、「命は自分のもの」と思っているが、実はそうではなくて、気がついた時に自分に命があったのである。私の中に命が生きていたということである。
「命は自分のもの」と思うから命を粗末にし、他人の命も粗末にしていく私たちの姿があるのだ。「それで良いのですか?」と、私たちの生きざまを問いかけてくる真理がつまり阿弥陀仏というのである。
仏を拝むのではなく、実は私たちは仏から拝まれている存在なのです。拝まれている私の存在に気づいた時、命が輝きを放って行くのです。輝く命を生きていくことが仏道を生きるということなのです。仏を私の自由気ままに使おう、仏に何かを頼もうなどというのは仏教から言えば、本末転倒なのです。
でも、これをお読みになった方でもなかなかそうはとってもらえないでしょうねぇ。だって、最初のボタンを掛け違えているのですから、最後まで話は一致しないのです。一度全てのボタンを外して、最初のボタンをきっちりと嵌めることが大切なのです。
最初のボタンをどこに嵌めるかというと、「一人一人の命は大切なもの」という穴に嵌めるのです。私のような迷い多く、欲の深い人間が、どの面下げて仏を操れるのでしょうかねぇ。
以下は真宗新辞典の引用です。読めば混乱しますからお勧めしませんが・・・。
ぶつ 仏 (梵)buddhaの音写の略.仏陀,勃陀,浮屠,浮図などと音写し,覚者,覚と訳する.日本では「ほとけ」とも訓む.真理を自らさとり,他をさとらせ,すべて満足している者の意.「仏と言ふは乃ち是れ西国の正音なり,此の土には覚と名く,自覚・覚他・覚行窮満,之を名けて仏と為す」〔玄義〕とあり,自覚で凡夫と区別し,覚他で二乗と区別し,覚行窮満で菩薩と区別する.仏の徳をたたえる種種な異名があり,如来の十号(応供・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊〔大経〕)をはじめ,世尊・世雄・世眼・世英・天尊〔大経-教〕,如来・応・正等覚〔如来会-教〕,十力無等尊〔如来会-行〕,聖尊〔如来会-信〕,一切無碍人〔華厳経-行〕,阿羅呵・三藐三仏陀・船師・導師・正覚・明行足・大師子王・沙門・婆羅門・寂静・施主・到彼岸・大医王・大象王・大竜王・施眼・大力士・大無畏・宝聚・商主・得解脱・大丈夫・天人師・大分陀利・独無等侶・大福田・大智海・無相・具足八智〔涅槃-真〕,第一真実善知識〔涅槃-化本〕,一切智人〔智論-化本〕,自在人・清浄人〔易行-行〕,如来・応・正遍知〔論〕,人天大師〔論註-証〕,法王〔安楽-信〕,第一義天〔述文讃-教〕,大覚〔弁正論-化末〕,仏天〔消息〕といい,一切知者,一切見者,知道者,開導者,説道者,大覚世尊(大覚尊),覚王(覚皇),大導師,大聖人,大沙門,大仙,仏日,両足尊,二足尊,両足仙,二足仙,天中天,人中尊,人中の牛王,人雄師子,能人などともいう.仏にはその特有な徳として,身に三十二相・八十種好をそなえ,また十力・四無所畏・十八不共法などの勝れた能力がある.仏の超越性を身勝・如法住勝・智勝・具足勝・行処勝・不可思議勝・解脱勝の七勝事(七種最勝,七種無上)であらわす.原始仏教では,もと仏とは釈尊を指したが,過去仏(古仏)としての燃灯仏等の過去七仏(釈尊は第7番目)や未来仏(当来仏,後仏)としての弥勒仏の存在が説かれるようになり,現在は釈尊と弥勒仏との二仏の中間で無仏の世であるとする.大乗仏教では三世十方に無数の仏がましますとし,他方世界の現在仏として西方安楽世界の阿弥陀仏をはじめ十方恒沙の諸仏の存在が説かれ,大経には過去仏としての五十三仏,三劫三千仏名経には過去荘厳劫の千仏,現在賢劫の千仏,未来星宿劫の千仏の三千仏を説く.仏身に関して,法身と生身の二身,法性法身と方便法身との二種法身,法・報・応の三身,法・報・応・化の四身などをわける.「ほとけ」という称呼について,「守屋がたぐひはみなともに ほとをりけとぞまふしける」「守屋がことばをもととしてほとけとまふすをたのみにて」〔末讃〕と定しているが,一念多念文意などの左訓には「ほとけ」とする例が多い.⇒ほとけ
あみだ-ぶつ 阿弥陀仏 真宗の本尊.西方極楽世界の教主.梵名にはアミターユス(阿弥陀■斯Amitayus無量寿)とアミターバ(阿弥陀婆Amitabba無量光)の2種があり,梵文大経ではアミターバの用例が多く,梵文小経ではアミターユスが普通である.漢訳では梵amita(無量)を阿弥陀と音写し二つの名を区別しない.弥陀は略称.阿弥陀と名づけるのは,光明と寿命との無量によるからであり〔小経〕,帰命する者を摂取して捨てないからである〔行,浄讃〕とする.大経には,無量寿仏を無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・焔王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏となづくとし,無量光仏以下を十二光仏と総称する.不可思議光如来,尽十方無碍光如来などともいう.浄土三部経およびその異訳のほか,華厳・法華・涅槃経をはじめ二百数十部の経典に弥陀の名が説かれている.大経には,阿弥陀仏の成道の因果を説いて,はるかな過去に出世された世自在王仏のもとで,無上道心をおこし出家した法蔵比丘(法蔵菩薩)が諸仏の浄土を見て善妙なものを選び,五劫のあいだ思惟して四十八願をおこし,兆載永劫の修行の後,今から十劫の昔に仏のさとりを完成し,現在は西方安楽世界(安養,極楽)で説法されているとする(梵文大経や異訳では,その内容に若干の差異がある).なお,法華経・悲華経・観仏三昧海経・阿弥陀鼓音声王陀羅尼経などには,それぞれ異なった弥陀の本生を説く.阿弥陀仏は因願に酬報した報身仏であるが,如から来生した方便法身であり,如そのものである法性法卓と相即するとし,報応化種種の身を示現するという〔証〕.その仏身・仏土に真仮をわけ,真仏は不可思議光如来,真土は無量光明土であり,観経の真身観の仏や観経所説の浄土,また懈慢界・疑城胎宮などは化身・化土であるとする〔真,化本〕.観音,勢至は弥陀の脇士(脇侍)であり〔大径,観経〕,中尊の阿弥陀仏の左に観音,右に勢至を配した仏像を阿弥陀三尊という.なお,阿弥陀仏の徳号に,無量光・真実明・無辺光・平等覚・無碍光・難思議・無対光・畢竟依・光炎王・大応供・清浄光・歓喜光・大安慰・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光・無等等・広大会・大心海・無上尊・平等力・大心力・無称仏・婆伽婆・講堂・清浄大摂受・不可思議尊・道場樹・真無量・清浄楽・本願功徳衆・清浄勲・功徳蔵・無極尊・南無不可思議光の三十七号がある〔讃偈-浄讃〕.また,十住毘婆沙論により自在人・清浄人・無量徳と名づける〔浄讃〕.
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