宗玄寺のご遠忌 2013


親鸞聖人750回ご遠忌
 2013年11月23日、宗玄寺での親鸞聖人750回ご遠忌が勤まった。丹波3組では、組をあげて各寺でのご遠忌執行を応援することを決めた。1年に2~3ケ寺ごとに無住寺院もお勤めをすることになった。その寺の門徒さんが本堂にお参り出来ず、外回りの仕事に没頭することのないように、他の寺の門徒さんが支援する仕組みもできた。

 こういうご遠忌が勤まるなどとは思いもしなかった。第二次世界大戦の煽りを食って、疲弊し荒廃した寺や門徒さんが、ようやく「何とかせねば・・・」と最初に取り組んだのは今から35年も前の梵鐘再建事業であった。

 1942年、戦争が大変な状況になって、梵鐘も「金属回収令」によって徴収されて行ったのだった。
 梵鐘の再建が叶って、本堂の屋根の葺き替えやリフォーム、後門裏の控え部屋の新設、屋外トイレの新設、髙塀や参道の全面改修と、大きな工事が数年おきに続いて行った。

 ご遠忌を機会に改修するということではなくて、戦争を挟んだ50年間の痛みの修復であった。
 そんな中で持ち上がったのが「組を上げて」のご遠忌の取り組みであった。

 宗玄寺の門徒さんは、「ご遠忌」というものがどういうものなのかを知らない。他の寺の「ご遠忌」にお参りしても、やがて自分の所でも勤めるという実感がわかなかったのだろう。

 目につくのは表舞台に出て来る法要儀式だけ。その日を迎えるための綿密なスケジュールや物・人の調達計画、役割分担などには気が回らないのは当然だ。

 が、やがてその日が近づいて来た。
 当世、少子高齢化はここもその先端を走っている。昔のように稚児行列などは出来ようはずがない。

 1年前に駒札が建てられ、春からの「ご命日のつどい」では「婆ちゃんコーラス」が歌の練習に入った。「あわや」という所に来ていた太子・七高僧のお軸の修復も出来た。50年ぶりに入れ替えられる畳は直前に持ち込まれた。

 どれぐらいの参拝者があるかを事前に調査し、座席のスペースをどのように確保するかの試行錯誤が続く。
 門徒さんが集まって、1週間前にはお磨きもお掃除も入念に完了。「50年に一度のことで、もう我々の生きている間には出会うことはない」と言ってもまだピンと来ない人もいるようだった。

 粗品・花芭・勤行本など、当日の用品が納められて来る。

 21日は門徒有志で不足のイスを隣寺へ借りに行き、図面通りに本堂に並べる。この作業だけで半日を費やした。

 22日午後。三々五々と予定時刻に集まってくる門徒さん。皆で最後の準備作業にかかる。受付用品を整える者、湯茶コーナーを準備する者、内陣の準備をする者などなど。程なく隣寺の住職である組長さんもやって来る。微に入り細にわたる「執行計画書」と首っ引きになる。

 昨日の有志の作業があったので、順調に準備が進み、予定の午後4時には「お初夜」のお勤めをすることが出来た。

 しかし、その後が大変。「婆ちゃんコーラス」には居残りが命ぜられ、最後の特訓が始まる。立ち上がって整列するタイミングなど最後の練習だ。明日はもう練習などをしている間はないのだ。

 とうとう23日。好天に恵まれ、役員やスタッフの集合時刻になった。最後の点検になって、住職はまだ着替える余裕はない。音屋さんもやって来て、最後の「Q」の打ち合わせをする。もはやジタバタしても仕方がないが、「ウロは来る来る殺気は起こる」だ。
 
 事細かに書かれた進行台本と、挨拶文、司会者セリフ帳、「Qシート」が頼りだ。

 法中への「差定さじょう説明」は組長さん。「もし間違っていても、放ったらかして進んで下さい」とは私の弁。

 出発の時刻だけは進行表に明記してある。途中の緩急は流れに任せるより仕方がない。
 予定時刻になって、堂内では着席案内と携帯電話の電源を切るアナウンスが流れ始めた。
 内陣のお蝋燭も点っているだろうし、香炉の火も入っているだろう。
 「慣れぬもので・・・」とは言わせないぞ。あれほど事細かに練習を繰り返したのだから・・・。

 実行委員長の挨拶が終われば喚鐘が撞かれる手はずになっている。50年に一度、いや宗玄寺では100年ぶりの「ご遠忌法要」が始まったのだ。

 婆ちゃん達は一世一代の「タンスの肥やし」を出して来て、華やいだ堂内になっている。

 「綺麗な着物を着て寺に集まって、宗玄寺さんでは“どえらいこと”が起こっているらしい・・・」とは、近所の他宗の方達の言だったようだ。

 儀式そのものは所作などを含めて省略があったが、それでも、それはそれなりに「差定」が組まれている。前の夜まで練り上げた表白には、しばし感涙・ウルウルとなった方が多かったという。それはそれは、そういうふうになるように練りに練った表白である。

 正信偈が終わり、「お文」が読まれ、そして、四国からお越し頂いた真城義麿師によるご法話を聴聞した。

 「とりあえず」という生き方を振り返ってみようではないか・・・。そして杉山平一さんの詩『生』が読まれた。右から左へ抜けて行った人もいるかもしれないが・・・。

 門徒さんとその家族が集まって記念写真をとった。門徒さんの感想は「よかった! 感動した! お寺は暗いと思っていたがイメージが一新した!」という。次回の「ご遠忌」には、みんなすごすごとこの世を去ってしまっている。(杉山さんの詩)

 ビデオの編集が残っている。3台のカメラで撮影してもらったのを1本に編集するのだが、これは案外と簡単に行けそうだ。
(2013.11.27)

表白

 恭しく尊前を荘厳して、本日、親鸞聖人七百五十回ご遠忌法要をお迎えすることができました。
 思えば今より百年の昔、親鸞聖人六百五十回ご遠忌と先代住職継承式が行われたことを、今に残る数多の寄進札によって推察しますが、どのように催されたのかは何も残されていません。
 折から世界では第一次世界大戦がはじまり、日本も参戦して行くことになりました。それは想像だに出来ない悲惨きわまりない事実への前哨戦であったわけです。
 その日から二十五年、勇壮鼓舞する軍歌の裏に、「欲しがりません勝つまでは」の歌とともに、指輪も鍋も釜も、仏具も梵鐘も「金属回収令」により徴収されて行きました。
 刃向かうことも、ノーと言うことも許されず、村の住職達は「報国托鉢」をして回りました。「今、命があなたを生きている」も「バラバラでいっしょ」も「個の尊厳と存在の平等」も、それらのことは微塵も許されることは無かったのです。
 跡継ぎの衆徒候補は、一片の赤紙により持って行かれました。彼の配属された摩文仁の丘は米軍の猛攻撃により原型を留めることはなかったのです。
 戦死の公報を受けた両親は納得できませんでした。秋風に戸が鳴ると、「帰って来たのではないか」と、何度戸を開けに行ったことでしようか。門の敷居に腰掛けて、毎日帰りを待ちわびていた祖母の姿が目に焼き付いております。
 そして巡って来たのは親鸞聖人七百回忌でした。「貧乏人は麦を食え」とも言われ、疲弊した人々と、荒廃した宗玄寺にご遠忌を勤める力はありませんでした。廊下の床は抜け落ち、雨が降るたびに洗面器やバケツが並ぶ毎日でした。今まさに、外陣の天井に残る染みはその頃の証しなのです。
 それから五十年。今、七百五十回の遠忌をお勤めする日を迎えました。
 しかし、百年前には想像もしなかったことが、人の手によって作られてしまいました。より便利に、より快適にと、際限なき欲望のために、開けてはならない箱の蓋を開け、ふるさとに帰れぬ多くの人を生み出し、十万年も経なければ無害にならないゴミを出し続けることになりました。自ら五濁を生み出す愚かさを問うことすら忘れてしまいました。
 念仏申して浄土に往生するということは、「個の尊厳と存在の平等」を成就させようと歩み続けることであります。それは「後から生まれて来るものが安心して生きていける世を残してやりたい」と言うことでもあると思うのです。
 私たちはこのご遠忌を生涯一度の機縁として、真宗門徒の生き様を親鸞聖人の言葉に尋ね、この生涯を力強く、共に手を携えてお名号の光に包まれて生きて参ります。「生きるとは何か」を尋ね続けて参ります。
 願わくは 一切世界の人々と この出遇いの喜びを みな平等に分かち合い
  共にほとけになる心おこして あみだみほとけの安楽国に生れ
   生きてはたらく 身とならん

      干時 平成二十五年十一月二十三日
                          宗玄寺住職 釋勝彦 敬白 

宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要(宗玄寺)

先、出仕 上臈出仕 讃歌『衆会』による
次、総礼
次、賛歌 『真宗宗歌』唱和
次、伽陀 稽首天人
次、表白
次、起立散華 『三帰依文』(パーリー文)唱和による
次、伽陀 直入弥陀
次、総礼
次、正信偈 草四句目下
次、念仏和讃  淘三
     三朝浄土の大師等 次第三首
次、回向 願以此功徳
次、讃歌『回向』唱和
次、総礼
次、退出 下臈退出 讃歌『四弘誓願』による

  拝読文 聖人一流

   休憩

法話 『生活と仏事』
   講師 真城義麿師(四国教区善照寺)

『恩徳讃』唱和 


 
    杉山平一

ものを取りに部屋へ入って
何を取りにきたかを忘れて
もどることがある

もどる途中で
ハタと思い出すことがあるが
その時はすばらしい

身体が先にこの世へ出てきてしまったのである
その用事は何であったか

いつの日か思いあたるときのある人は
幸福である

思いだせぬまま
僕はすごすごあの世へもどる

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