お盆が近づくと、遠くふるさとを離れて都会に出ている方が、お墓参りに帰ってこられる。宗玄寺では、土曜日や日曜日に帰郷される方は珍しい。たいていが月曜から金曜にかけて・・・。
それには理由がある。
①土日は新幹線が行楽客などで混むから?
②土日は住職が寺に居る可能性が高いから?
私の若い頃、朝の6時に ピンポーン!!
やおら起き出すと、
墓参りに来ましたので・・・・。
今日来るなら来ると前もって連絡してもらわんと
いやー、朝早くだと、道がすいていて、車で来やすいから・・・。
次の年、こんどはちゃんとアポを取ってきた。
が、待てど暮らせどやって来ない。やっと来たと思ったときには、もうせっかくの一日が無くなってしまっていた。
何時頃に来るって、時間も言うとけ!
そうでんなぁ・・・。
もう10年ほど前のこと、お盆の14日。(丹波は月遅れのりお盆だから8月14日はド最中)
墓参りに来ました。8月14日は命日でして、法事のお経が欲しいんですが・・・。
なにお! 盆の14日と言えば、坊主は大変なんだって。アポ取ってからにせい!!
そしてついこの間のこと、(当然住職は留守)
墓参りに来ました。これお供えですが、おばあさんでもよろしいから、またお経をあげておいて下さい。
坊守いわく。
はい判りました。(言うても判らんから、婆さんの事は黙っていたって。)
うちの婆さんは、なるほど以前はお経もあげていた。が、歳を考えて見いぃ。頼んだおっさんもエエ歳して、杖を頼りの老境。それより歳がぐっと上の、我が家の婆さんは、おん歳87歳。
自分の身の回りもままならず、今や介護保険で療養型病床群に入所中。おまけに歩行もままならず、痴呆も出ている。なんまんだぶつも、とうに塩爺みたいに忘れてしもうた。そんな婆さんが、テクテク歩いて、あんたの墓へ行って、お経が上げられるかね?。
自分が歳を重ねてるってことは、相手も歳をとっているってこと。その当たり前をなんと心得とるか?
はるばる新幹線に乗って、乗り継いで、やっとたどり着く父祖の地であることはよーく理解できる。往復の時間、往復の旅費。そりゃ大変だわなぁ。だからこそ、相手にアポを取って、相手もちゃんと快く待ち受けてくれるコミュニケーションを取るってのは大事な事じゃないかな?
なんまんだぶつも満足に言えなくなった婆さんに、自分の名代として墓参りをしてもらったって、ご先祖は喜びはしませんぞ。
くそ腹の立つのは おばあさんでも。この「でも」じゃ。
お供えならお供えでいい。つべこべ理屈をつけるべきものではない。
つい何年か前のこと、
法事を頼みたいのですが、住職さんは忙しいようだから、息子さんでもいいですので・・・・。
またぞろ「でも」か?
住職の法話が嫌なんだって?。息子は法話ができないから早く済ませられるってこと?
それとも住職が行くと、お布施を心配せにゃならん。息子だと安くつくから?
あんたにとっては、訳もわからんお経だけで良いのなら、テープでお経を流しとけば??
仏教の行事ってのは、あんたに代わって祈祷しとるんじゃねぇんだってば。特に真宗ではな。
宗玄寺の坊主は、頑固で偏屈で有名なんだよ・・・・。
「でも」と指定されるということは、つまり、早い話が、「あんたは二番煎じ」ってことだよね。
そして、本音は、住職にやってもらうと大層になるってことじゃない?
そんな失礼な言い方ってないのじゃない?
昔の 諺に、他人の振り見て 我が振りなおせ ってのがある。
他人様が自分に対して行う事は、一々えぐられるようによく判るものだ。自分が他人様にしていることは、頓着していない。書きながらも、多いに自分を反省するばかりだ。
でもさ。この場合の具体例は、仏教って、私にとってどうなのか?という事ではなく、仏教は、ご先祖様を慰めるおまじないと受け取っている所から発生している。
そうじゃねぇんだよって言っても、ガッテンしないんだから・・・・。
去年の夏の笑い話
私は子どもの頃から、近所の方に「ぼんちゃん」と呼ばれてきた。ぼんさんの小型だから、さんがちゃん?
因みに、お釈迦さまの愛称はバカボンだった。
65歳のおっさんが、60歳になろうかとしている私に、溝の縁に腰掛けて、缶ジュースを飲みながら、
ぼんちゃん、わし不思議に思うとることがあるねん。
なに?
8月12日に家族そろってお墓へ参って、ご先祖さんを連れて帰って、家の仏壇でお経を上げる。
ふむふむ。
13日もみんなでお墓参りをする。
ふむふむ。
14日には、またみんなでお墓へご先祖様をお送りする。
ふむふむ。
不思議なのは、13日、空っぽのお墓に何でお参りするんやろ?
ふむふむ。
いっかど理屈は合っている。
あんたの家ては、3日間はご先祖が家におるというこっちゃな?
そうやなぁ。
すると、362日間は空っぽの仏壇ちゅうこっちゃな?
そやなぁ。
毎日参っとるのは空っぽの仏壇やな?
???????????
先祖を物体として見ると、こんな珍なる問答になる。先祖が私の都合であっちへ行ったりこっちへ行ったり・・・。墓も、あの世も、仏壇にも先祖がいるって事にすると、どれが本者の先祖様? 墓や仏壇は、先祖のいるところへ通じるものとすると、テレポートする入り口か?
そうじゃないんだってば!!。
そこを間違って解釈してるから、お盆には父祖の地に帰り、墓に参り、そして、無病息災、家内安全を先祖に頼み、ご利益を得ようとすることに繋がっていく。
うまく事が運ばないと、今度は「先祖の霊」が怒っとる、祟っとる、などと、先祖へ責任転嫁していく。
道元禅師の「仏教を学ぶと言うことは自己を知ることなり」という教えとは随分かけ離れてしまったなぁ。
さぞや、お釈迦さまもびっくり。わしゃ、そんなこと言ってねぇぞって。
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