宗教とは、そもそも人がその一生を如何に生きていくべきかを深く考える存在である。仏教では、大乗・小乗など区別をしているが、「如何に仏になるか」ということである。
仏といっても、それは本来の意味は『仏陀』なので、つまり『覚者』=『さとれる者』であって、決して死んだ者の変化したものではない。
言い換えると、死ぬ間際に、
「私は人に生まれてきて良かった。為すべき事は全部した。思い残すことや未練はない。こんな私につき合って頂いて、みなさんありがとう。さよなら。さよなら。」
と言って死ねるかどうかということである。
それをどこでどう間違えたのか、やれ亡くなったご先祖様の追善供養だ。いや、死んだ後、極楽浄土へ行くために・・・。
死というものだけをとらえているから、
「仏教は年寄のすること。私はまだ若いから、寺とは関係ない。仏教も宗教も関係ない。」
などと勘違いをしてしまうのだ。
婆さんばかり寺に寄こして、自分は一度も寺に来ない息子などがよく居るものだ。一生、親に外交を任せて部屋住みで居れればいいが、何時までも親が変わりをしてくれるなんてことはないのだ。
一度しかない人生を、まさに毎日毎日消耗していきながら、何が「まだ早い」のであろうか。
自分の生き様を振りかえらず、死後を祈り、死者を祀ってだけいては、自分というものの責任転嫁にほかならない。
しかし、人間というものは大変なご都合主義であるから、あたかも死後に現実の物理的存在として「極楽浄土」が存在するかのように思い込み、また、思い込ませてきた歴史がある。
金子大榮という人が、『浄土の観念』という論を出して、真宗の僧籍を剥奪され、大谷大学の教授の職を追放されたことがあった。
「浄土」というものは、「精神観念」的な存在であると論じたのである。
(「真宗資料集成」というものの中にあるそうです。お暇な方はどうぞ)
今では、だれも真剣に、西の方、十万億土の彼方に「浄土」というものが物理的に存在するなどとは信じていない。
しかし、金子大榮という人は 『浄土の観念』 という論で、「浄土は精神観念的に存在するもので、物理的に存在するものではない」と論じたのである。
そう言われると、大変困ったという人がたくさんあったのである。でなければ、追放するなどと言うことはあり得ないのである。
「なんまんだぶつを称えなさい。そしたら、死んだら極楽浄土に行けるから・・・」
信じたら得をする。信じたら幸せになる。そんなのは宗教とは言わない。
信じたら、迷うことなく自分の生き方に真向かうことが出来る。
それが宗教である。
「弔う」事のみに目を向けていては、自分を見失ってしまう。
「私が私であってよかった。私が私であったから、私はあなたに出会えた。あなたに出会えて良かった」と言える人になる。それが仏教だと言った方があった。
この間、本を読んでいたら、「日本とは不思議な国だ。小乗仏教、大乗仏教と区別しているが、本来は同じ物であったはず。坊主が肉食妻帯なんて、世界中で日本だけ。表向きは戒律を守ってきた振りをして、その実、裏では・・・。」
日本の仏教は『便乗仏教』だと書いてあった。
うまく表現したものだ。
「飲酒運転の罰則がきつくなった。捕まったら商売あがったりになる」と言うた坊主がいた。
飲酒戒ってのがあったはずんだけど・・・。
旧ホームページからの移転