駐車場の4というもの


 「50番までの駐車場があります。全部の区画に車が入っています。車は何台駐車しているでしょうか?

 駐車場の区画表示に4という数字の無い所が多い。4だけではなく、9・42・49などなどを抜いている所も多い。4=死 9=苦 42=死に 49=四苦 という語呂合わせであることはみんなよく知っている。

 こういう語呂合わせから出てくる縁起担ぎが、根拠のないものである事を知りながら、今も堂々と罷り通るのは何故なのか。

 今から830年ほど前、平安時代の末期に後白河法皇によって編集されたと言われる今様歌謡の集成に『梁塵秘抄りょうじんひしょう』というものがある。その中に、

 我が子は二十はたちに成りぬらん 博打ばくちしてこそ歩ありくなれ
 国々の博党ばくとうに さすがに子なれば憎かなし
 負かいたまふな 王子の住吉西の宮

という歌がある。

 この時代にすでに博打というものが生業なりわいにあったということだ。この博打うちがそもそも語呂合わせで4や9という数字を嫌ったものであろう。長い由緒と伝統ある語呂合わせでしょうから、さも有難いものなのでしょうねぇ

 宇宙に人を滞在させ、やがては火星に人を送ろうという計画まで作られる論理社会の中において、4や9は「死」や「苦」に通じるなどということを当たり前として受けとる姿勢を作り出しているのは、一体何なのでしょうかねぇ。

 気をつけて見てみると、あちらもこちらも、まあ殆どの駐車場の番号は、見事に4や9がない。たまに4や9を見つけるとほっとする気分になる。
 
 かつてある団体が出そうとしたカレンダーに「六曜」が記載されていて、「迷信である六曜を記載することはいかがなものか」という市民団体の抗議により、印刷が完了して配布を待つばかりであったが印刷し直したということがあった。今も「六曜」はカレンダーに刷り込まれていないが、迷信を打破するということは、一つ一つ指摘されないと出来ないのであろうか。

 世界を相手の大企業が出しているカレンダーには「六曜」などという迷信は記載されていない。「日本という国は迷信が堂々と通る国だ」などと思われては商談はもちろん、信用も丸潰れでしようからねぇ。

 かつてのバス旅行などでは、1号車・2号車・3号車・寿車 などという表示があったものだが、近頃はどうなのだろうか?
 
 そんなに4と9を嫌うのであれば、JRの大阪駅のホームの番号も、4と9を抜いて表示すればどうか?

 4両連結の丹波路快速には、1号車・2号車・3号車・寿号車とは表示されていない。

 科学的根拠と迷信が同時に生活の中に存在するというのは、まるで明治維新の「文明開化」と「王政復古」がゴチャマゼになって存在しているのと同じだ。

 4や9などの数字の語呂合わせで縁起担ぎをしているのはギャンブル性のあるものと、駐車場の表示ぐらいになって来た。

 しかし、ギャンブル性といっても、競馬の着順はやっぱり 1・2・3・4 となっていますねぇ。1・2・3・寿 ではないですねぇ。
 競馬中継を見ていると、馬の発車?装置の枠には、ちゃんと1から順に通し番号が付けてあった。

 駐車場の枠の表示は、4・9などの縁起担ぎをして付けるものだという固定観念があるとしたら・・・・・・。

 いつまで非科学的で、迷信の骨頂のようなことにしがみ付いているんですかねぇ?
 けったいなものが流行すると、瞬くうちに右へならうのは、本当は怖いものを秘めているということを、歴史の上でついこの間まで経験したのに・・・・。


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