作法が大切?
日本の文化は、いや世界中どこでもそうなのかも知れないが、どうも人間というものは作法をとても大事にしている。
茶道にしても全くその通り。私にとっては、タカがお茶を一杯飲むのに、何故に何度も頭を下げ、値打ちも分からぬのに茶碗をひねくり回して、お褒め申し上げなければならないのか・・・・。
利休が台湾のオマルで秀吉に茶を点てたという話を聞いたたことがある。ウソかホントかは知らないが、「これは大層値打ちのある物」と言われれば、そう思い込んでしまうのかも知れない。
お茶もお花も、家元という存在をピラミッドの頂点にして資格を取るような制度になっている。毎週毎週お稽古に通って、そしてほんのちょっぴり作法を教えてもらう。その作法が実生活の中で生かされているかというと、実はそうでもない。
襖の開け閉めも、なるほどお稽古の時はおしとやかに出来ても、実生活では足で襖を開けたり・・・・。
点心なるお茶席でのおしとやかな食事を頂いてはいるものの、普段はばぶっかけ飯(ネコまんま)で・・・・。
実生活にどれほどお茶やお花の作法が反映されているのかと思うとチャンチャラおかいしのだ。
お茶やお花のお師匠さん達に言いたいねぇ。もっと弟子の人間教育をやって欲しいものだって。
秘伝って何か?
蓮を生けるのは大変難しいのだそうだ。水揚げが難しいという。蓮の水揚げは秘中の秘だそうだ。ちょっとやそっとでは教えてもらえないという。
ところが今やホームページで検索すると、蓮の水揚げの方法が懇切に説明されている。秘中の秘と思っているのはお師匠様だけ。世の中には教えたい人もたくさんいるのだ。
だいたい、秘伝などというものが世の中の役に立った試しはない。一握りの人間の限りなき欲望を満たす手段にしかならないのが関の山だ。花を生けたりお茶を点てるのに、そんなに長い年月の練習が必要なのかと、いつも不思議に思う。
いや、あんたは知らんのだ。茶やお花は奥が深いのだ。
と申される。
師匠の教え方が悪いのか、生徒の覚えが悪いのか、はたまた、師匠の出し惜しみなのか。底なし沼というか、ドツボにはまるとというか、そうそう簡単に教えてしまうと月謝の身入りが絶えてしまうから・・・?
ずーっと以前。ある舞踊を習いに毎週行っていた人の話。
先生、その振り付けは先週教えていただいたのとは随分と違うのですが・・・。
あらー、そうだったかしら・・・・。
本論
お住っさん、仏壇はどうお祀りしたらええのですか?
とよく訊かれるのです。
何をどのようにお祀りしたいのですか?
と逆に問い返すと、
ご先祖に失礼にならないような祀り方ですが・・・。
つまり、形にこだわっているのですねぇ。
まあ、一応はそれぞれの宗派によって標準的な形はあるにはあるのですが、それが全て実生活で適合するかというと実はそうはいかないのが現実なのです。
宗派によっていろいろと仏壇の祀り方の解説書なども出されているようですが、それをお示ししてもその通りにはされないのです。教えても無駄になることがあるのです。
おひな様を飾る時は、あれこれ写真を見て、解説書を見て飾られるのですが、これが仏壇となると・・・。
ご馳走も、粗供養の引き出物も、酒もビールも用意万端なのですが、仏壇は埃まみれで花も枯れたまま・・・。そんな法事もあったのですねぇ。
仏教は仏壇を飾ることではないのです。仏教という教えを聞いていくのです。しかしだからといって仏壇を飾らなくても良いということではありませんが・・・・。
要するに外見というのでしょうか、作法だけにこだわっているのですねぇ。そういうものにこだわる心を捨てていくことが仏教だったのですが、それを人間はどうも捨てきれないのですねぇ。
そのこだわっている作法を逆手にとって、厳しく作法を強要すると、今度は、
そんな作法ばかりにこだわって・・・
と楽な方を選ぼうと、坊主を中傷するのですねぇ。
肝心の中味は、どこかへ消え去ってしまっているのです。中味のない蝉の抜け殻だけを後生大事にしていこうとしているのかも知れません。
作法通りに祀ると先祖は・・・
作法通りに仏壇を祀り、作法通りに葬式や法事をすると、先祖が成仏し、浮かばれるのでしょうか・・・。いえいえ、そんなことでは到底先祖が成仏することはありませんなー。一体何を勘違いしているのでしようかねぇ。
私は作法は必要ないと言っているのではないのです。大方が実生活に反映していないのではないかということなのです。中味と表面が違う、つまり、もっと平たく言ってしまえば、本音と建て前になっていませんかということです。
仏教でいえば、儀式を厳かに執行することが目的ではなく、教えを真摯に受け入れていくことの方が大切なのです。そして、真摯に受け入れたときに、敬虔な思いから、厳かな儀式が始まっていくのです。
初めての方がお茶会に招待されたら、殆どが尻込みをされます。何をどうして良いのかわからないというのです。静かにお茶を飲んでひとときを過ごすという心境よりも、もう頭の中が真っ白になって・・・・というのが現実ではないでしょうか。
反対なのです。まず作法があるのではないのです。中味があって、作法は後から形作られて行ったのです。
作法(仏壇の飾り方)だけを会得しても、中味はさっぱり伴わないというのでは、仏壇は、読みもしない○○全集や百科全書の鎮座まします応接間のシンボル以外の何ものでもないのではないでしょうか。
葬儀司会者の迷セリフ
御寺院方におかれましては、丁重なる御式事・御作法を賜りまして誠にありがとうございました。
えっ? わたしゃそんなつもりでやってないんだけど・・・・。
○○△子様の突然の御崩御にあたり・・・・・。
おいおい、あの人いつから皇后陛下になられたんだっけ?
近頃の食事の作法は
近頃の食事の作法は、一口ごとに「あぁー」とか「うー」とか唸らねばならないそうだ。いえなに、どこのチャンネルに合わせても、殆ど一日中、料理番組にぶつかってしまう。何を喰っても「あぁー」とか「うー」とか唸っている。
中には、「うわぁー、このラーメンには鳴門巻が入っている!!」、「うわぁー、ここのラーメンには味付け海苔が付いている!!」だって。
鳴門巻や味付け海苔がそんなに珍しい珍味かってんだ。ぎょうぎょうしいんだって。ばーか。
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