逮夜と満中陰

逮夜って

 お葬式があると、仏式ではたいてい逮夜づとめをする。逮夜というのは、その日を待つという意味がある。
 鸞聖人の月命日は28日。お逮夜はしたがって27日になる。大谷派(東本願寺派)では、11月27日を特に大逮夜と呼ぶところが多い。(西本願寺では旧暦で行われるとかで新暦の1月中旬頃)
 さて、お葬式が終わって、みなさん一番気になるのが初七日である。よく間違われるのは初七日の数え方だ。

 亡くなられた日を一と数え始め、七日目が初七日となる。つまり、月曜日に亡くなられると、月曜から指を折って数えるから、七日目は日曜日になる。以後七日ごとに二七日、三七日と数えていく。逮夜はその前日だから、毎土曜日となる。

 この前、中陰表をお渡ししたら、「親戚の中で『日が違う』という声が出て、どうなんですか?」と言う質問があった。
 「エエーっ」と、びっくりした。
 というのは、私は、亡くなられた日を入力すると、閏年もちゃんと計算して百ケ日まで自動計算してくれるプログラムを使っている。もしプログラムミスがあるのなら、そして、私の計算方法が違っているのなら、今までのお葬式の逮夜がみんな違っていることになる。あわてて、他の住職さんにも確かめた。

 原因は親戚の方の、初七日という意味と、逮夜という意味、そして、数え方の混乱であった。逮夜というのは、その事が起こった日を待つということだ。厳粛に命を終えられて行かれた日を静かにみんなで思い起こしていくけじめかも知れない。逮夜や初七日にお経を称えるから、亡くなった方が成仏出来るということではない。その方の死を通して、我が身のいのちを見つめて行きたいものだ。

満中陰のこだわり

 満中陰が三月にまたがると具合が悪いと真剣に信じている方がある。ところが、よくよく考えてみると、月末に亡くなられると49日は必ず三月にまたがってしまう。いやそれどころか、七日どりの五逮夜や五日どりの七逮夜で35日にしても、必ず三月にまたがってしまう。どうしても三月にまたがるのがイヤというのなら、亡くなる日を選ばないと仕方がない。つまり月初めということだ。
 
 三月にまたがるというのは、死が身に付くということらしい。三ヶ月もの長い間、お祀りするのは大変だ、イヤだと言うことがあるかも知れない。

 死が身に付くなどとは、全くの語呂合わせもいいところ。そして大変だ、イヤだとなると、親愛の情なんてクソ食らえみたいで、なんともはや、情けないの極み。何で葬式するの?って尋ねたいぐらい。三月にまたがるなんてのは、迷信の極みだ。しかし世間ではそれを信じているから厄介なものだ。因みに、蓮如上人だったか? 中陰の期間は別に定めはない。それぞれ思うだけすればよいと言うような意味の事を言われている。

 『無縁慈悲集』という書物があって、その中の中陰のところに
「七々日に生まれ変わるところが定まると言うが、これはみな他の宗派の法式であって、わが浄土宗ではそんなことは言わない。念仏を信じて生きてきた人は、息絶えたるとたん、蓮華に化生するのだ。阿弥陀経には、名号(南無阿弥陀仏)を堅く信じて、一日、もしくは二日、あるいは七日、一心不乱に念仏すれば、その人はいのちの大切さを悟った人として、この世での息が絶えた途端に、蓮華の地に生まれ変わるのだと示されている。」
と示されている。今から四百年も前の書物であるが、中陰のお勤めの意味が問いかけられているよだ。


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