
幼少時代 幼稚園は伊丹南小学校に付属した幼稚園に通った。ごく普通の幼稚園児であった。しかし、いわゆる学芸会で舞台に上がるのは頑として拒否した。恥ずかしかったのだろう。園長先生が呼びに来て、なだめすかしても頑として嫌だった。
遙かに六甲の山並みを見、野原にはクローバーの白い花が咲き、夜ともなればキューピーマヨネーズ工場へ餌を求めて狐がギャーギャーと鳴きながら通り過ぎていた。
三年生の春、丹波へ帰ってきた。夏休みには母の実家である寺に帰って暮らしていたので、友達はたくさんあった。


六年生になって、初めて川に行き、友達に泳ぎを教えてもらった。ずいぶんと深い淵に連れて行かれ、手を離されたので、必死でもがいたのが泳ぎの初めである。
父が電気に詳しかったので、3路配線を教えてくれた。祖父は電信学校を出て通信士をしていたので、モールス信号(トンツー)を教えてもらった。竹細工も木工も、刃物の使い方も祖父が教えてくれた。
飛行機、鉄道模型、たこ揚げ(山の頂上から数百メートルも上げる)、ソリ遊び、手作りスキー、チャンバラごっこ、もう数えればきりがない。
村芝居(巡業芝居)がやって来ると、その後はきまってチャンバラばかりやっていた。「少年」という月刊誌があって、毎号必ず付録が付いていた。この付録が楽しみ。厚紙での組み立て工作である。幻灯機、写真機と現像セットなどもあった。そのころの経験が、今の私を器用にしているのかも知れない。
中学校時代 たった三人のバスケット部に入った。一月もしないで廃部になった。放送部に入った。これは、運動会の時に出なくてよいから。レコードをかけ、アナウンスをしていれば、あの大嫌いな運動をしなくてすむのである。ラジオドラマの制作に熱中した。ガリ版での台本作りが毎日の日課となった。
。鉱石ラジオ、3球超再生ラジオ、5球スーパーラジオ等を組み立てては楽しんでいた。この3年間は、今から振り返ると10年間ほどに充実した時間であった。英語は苦手だったが生物は好きだった。植物採集、昆虫採集と野原を走り回った。メンデルの法則も中学校で習ったものだ。英語が嫌いなのは、会話ではなく文法中心の教え方だったから。文法なんて知らなくても、結構通じるとは大学生になってから外国の人と話をした時に改めて思ったものだ。
高校時代 ここでも放送部に入った。理由は同じである。とうとう機械を壊してしまった。本人は治すつもりが・・・。
ピースの両切り10本入りは当然ポケットの中に。卒業後、労音の照明のために体育館の天井に上がったら、自分の吸い殻がちゃんとあったのには恐れ入った。
化学の時間は、準備室に潜り込んで試験管に半分ほどエチルアルコールを失敬してくる。水で倍に薄めると大吟醸になる。3時間目には女生徒の弁当を失敬。
こてんぱんに成績が下がっているのに、なぜか「生物」だけはトップクラス。「おまえは文化系なのに、生物で点を取られると困る」なんて教師が言うから、「なにお!!!」。
英語教師に坂●というのがいた。硬式野球部の担当で、野球部員にはえらい依怙贔屓をしていた。彼のおかげで、英語は余計に嫌いになった。あぁ、思えば相当な悪ガキだった。
大学時代
やってみたいのだ プロマイドというやつ 大宮学舎
親元離れてはるばる来たぜ京の都。しがらみが取れたのか、なぜか勉強の仕方が分かってきた。ふらり立ち寄ったのがデパートの手品売り場。手品の虜になって、以後デパートでマジックディーラーのアルバイト。今の近鉄京都店(当時丸物百貨店)である。
その後、大阪の阪急百貨店でもアルバイト。手品のサークルを発足さた。仲間は社会人ばかりで学生は私だけ。そんな私がいわば事務局長。老人ホームや養護施設の慰問に回った。その時のメンバーが残っているのが「京都アマチュアマジシャンクラブ」である。新築なった「京都会館」での発表会をすることがみんなの夢であった。当時の仲間はもう70歳を超えているから不思議なものだ。
デパートといえば周りの店員は殆ど女性。社員特典証を借りて格安で買ったり、一食100円の社員食堂を利用したり。
お辞儀の仕方は阪急デパートで徹底的に仕込まれた。「バイトであろうと正社員であろうと、お客様には関係ないことだ」と。開店時と閉店時は、当番が組んであって、エレベーター、エスカレーター、階段の所で両手の中指をズボンの縫い目に沿え、恭しくお辞儀をしてお客様を送迎するのだ。最初はこれが実に恥ずかしくしんどかったが、慣れるとそうでもなくなった。近頃役所の職員も、そんな礼の仕方が出来なくなってきたようだ。市長訓辞が終わったら、拍手するのだから何をかいわんや。市長訓辞とは、いわば「注意喚起のお言葉」なのだ。話が終われば、なんでもかんでも拍手すればよいというものではない。
さて、3回生の時、松竹演芸に来ないかと誘われた。学生手品師できっと売れるからと。当時日本に入ってきた華やかな手品に「鳩出し」というのがある。映画「ヨーロッパの夜」でチャニングポロックというマジシャンが、スカーフの中から白い鳩を何羽も取りだした。
プロもアマも一斉に鳩出しに挑戦した。引田天功、島田晴夫、関西ではゼンジー中村がプロでは初め。アマチュアでは、おそらく私が初めではなかったかと思う。学生寮で鳩を飼うのだから、よくまあ仲間が辛抱してくれたものだ。
寮と言えば、「寮友会」というのを作り、男子寮・女子寮の交流ということで、バス旅行やダンスパーティー、カクテルパーティー、寮祭など開いた。重要文化財の建物の前で、大きなファイヤーストームを囲んでの寮祭はおもしろかった。よくまあ京都市消防局が許可してくれたものだ。今では絶対不許可に間違いない。初代龍谷大学大宮学寮寮友会長であった。
新京極、先斗町(ぽんとちょう)界隈はよく行ったものだ。200円で3本立ての映画もあった。「戦場に架ける橋」、「史上最大の作戦」「荒鷲の要塞」「誰がために鐘は鳴る」など、当時の名作は殆ど見た。
夏休みに、広島の友人宅へ言ったときに始めて馬に乗った。農家だったので馬を飼っていたのだ。でも走らなかった。実にヨボヨボの爺さん馬だった。
帰りに三原駅で時間待ちにパチンコに入ったら、「兄さん、どうぞこちらに」と店員が言うので、素直に座ったらジャジャ漏りの台だった。どうも組の世界のお方と間違われたらしい。
黒皮のハットに黒のカッターシャツ。白いネクタイに真っ黒のサングラス、白い靴。日活映画の小林旭という出で立ちなのだから、どう見ても当時はその世界の方に見えたのだろう。どうも強面のようだが、嵐山、天竜寺、寂光院、三千院、詩仙堂、哲学の道、苔寺、南禅寺、鴨川の夕涼みなど、およそ京都の名所は全部回った。
寮というのはなかなか面白いところで、いろんな特技を持った者が集まっていた。ギターの上手い者、碁の強い者、写真の好きな者。親からの仕送りをみんなで一晩で散財したものだから、後でばれて、さんざん叱られてた奴もいたなぁ。四条河原町あたりに行くと、歌声喫茶、名曲喫茶などが全盛だった。
分かりもしねぇのに、分かったような顔をして、一杯のコーヒーでタバコを吹かして気取って時間を粘ったものだった。市電は15円で乗り継ぎ切符を貰うと、京都を一周できた。
500円あれば、新京極で十円寿司を食って、先斗町のワインリバーというカクテルバーで、何でも一杯百円のカクテルを飲んで、15円だけ握りしめて上機嫌で寮へ帰れたものだ。夜の先斗町にはサザエの壺焼きの屋台からかぐわしい匂いが漂い、高瀬川の流れと垂れ柳がなんとも言えない情緒があった。
卒業して 郷里に帰って教育委員会に就職した。 郷里で手品クラブを作りながら、文化協会を結成した。そして文化祭というものをすることとなった。毎年テーマを決め、そのテーマに沿った催しを10月から11月にかけて開催していく方法。行政任せではなく、それぞれのサークルで客集めもしてもらう。「昭和○○年度文化祭参加」というお墨付きで文化意識の向上に繋げていこうと思ったのである。
そうこうするうち、篠山城跡で「観月園遊会」というものをすることになった。静かな落ち着いた雰囲気の中で、各界の交流をしてもらおうということだ。「月にかこつけて酒を飲む」というのではない。文化協会の主力構成団体がすべてに協力してもらうことになった。「わしに招待状が来ない」と文句を言われたこともあったが、それだけ「観月園遊会」の位置づけが重視されていたのかもしれない。
これらの運営ノウハウは、寮友会の運営で培ったものが役立ったと思う。
視聴覚ライブラリーといういわば映像図書館を作ることになった。おかげで17年もそれを担当することになったが、映画からビデオの時代を経験することになった。撮影もした。作品もたくさん制作した。全国表彰受賞に東京へも行った。
この運営の基礎となったのは、中学・高校時代の放送部での経験が役立ったように思う。毎日毎日16ミリカメラやビデオカメラを担いで走り回ったものである。一週間こもりきって脚本を書き、役場職員総俳優(もちろん町長・収入役も出演)の人権教育教材ビデオ「雪割草」の制作は大変だった。撮影には3ヶ月かかった。夏の最中に晩秋のシーンを撮影するのだ。枯葉集めに走り回ってもらい、蝉の鳴き声を止めるのに爆竹をならして蝉を驚かして、泣きやんだ瞬間に撮影をする繰り返し。
60分の作品が出来て、200本以上が他の市町村に実費頒布されたし、総務庁長官賞をもらうことにもなった。同和教育の県大会や全国大会での実践発表が続いた。
卒業と同時に、篠山労音というものに入会した。二ヶ月に一度、歌手を招いてコンサートをする。月会費は500円。クラシックは250人ほどだが、フォークになると1000人もの観客が詰めかけた。全部手作りになる。今ではホールもあるが、当時は高校の体育館を借りてのコンサート。音響も照明もみんな自分達でやった。舞台照明1級技術者の検定を受けた。そんなことが、今度は町にホールが出来たとき転属命令となってしまった。人生何が自分を左右するか分からない。
ホールで6年。その間、サンテレビジョンの「金曜いきいテレビ」という生番組のレギュラーで出演が続いた。小枝さんもレギュラーだった。いろんなゲストと一緒になった。天童よしみさん、も。
そのあと、町民課というところに移った。移ったとたんに肺に変なモノが出来て切除手術で1ヶ月休暇。戻ったところへ戸籍のコンピュータ化の一歩が。しかしよく見てみるとそれは見出しだけのコンピュータ化なので、計画を全部見直した。完全コンピュータ化へまっしぐら。おかげで今度はあちこちの視察を受けたり、講演に出回ることになった。
町民課といえばそのほかに住宅、ゴミ、消防、消費者問題。夜電話が鳴ると火事の出動。集中豪雨で家が流され、町がずたずたになったこともあった。阪神淡路大地震の時は、救援おにぎり製作隊長まで。朝5時に学校給食センターへ行って、婦人会などのボランティアさんとおにぎりを作っては、芦屋・西宮へ搬送する職員に引き渡したものだ。
長らくそのままであった「防災計画」も一般編と地震編の二部構成で作り上げた。大晦日の民家火災には往生しまっせ。民家全焼。しかし一方では除夜の鐘。二足のわらじの大変なこと。
「雪割草」のせいかどうか、次は人権教育課へ。そして町の合併。合併といっても、そうは簡単にはいかない。なにしろそれぞれの町のやり方があって、行政水準も考え方も違うのだ。それをどのように一定の水準にしていくかが大問題なのである。同和対策は最後まで調整が遅れることになった。
最後のお務めは保健福祉部。国民健康保険、保育所、診療所、デイサービスセンター、介護保健、福祉事務所。総数220人の職員。合併前の町長さんより多い人数の職員。
保健福祉部と言えば、もう「ゆりかごから墓場まで」なのである。最初は福祉用語すらチンプンカンプン。白髪は増えるし難聴気味にはなるし。聖徳太子は同時に7人の話を聞いたと言うけれど、そうすると私ゃ聖徳太子以上か?。
門徒さんと本山へ 篠山労音の照明係 隣寺のご遠忌で 鳩が出ます 3本リング トランク抜け ミリオンダラー 高速開通のイベントで 応挙寺での撮影 職場旅行で セスナで空撮 らじこんへりが飛んだ 秋篠宮さんがやって来た 視聴覚教育研修会で 金曜いきいきテレビに
齢58。実にいろんな事を経験した。パソコンをおぼえ、ベーシックプログラムも自由に組めるようになった。お陰で一遍に老眼になったが。
しかし、沢山の経験には沢山の友人や、私を支えてくれた人がいたということである。自分一人では、こんなにたくさんの経験は積めなかった。人が生きていくためには、支えてくれる人と、時には足場をひっくり返してくれる人がなければならないのだ。
いつも自分にとって都合の良い人ばかりではない。自分にとっては都合の悪いことを、わざと私のためにしてくれる友人も必要なのだ。私の思いだけを通そうとしても、それは私が私になりきれない道を歩んでいるに過ぎないと言うことを、高い月謝と熱い涙とで思い知った58年である。
住職道 ここまで書くと、普通のサラリーマンみたいだけど、実は、住職という仕事も平行してやってきた。
卒業後、検定試験で住職になるための「教師資格」をとった。これには閉口した。わずか五科目なのに、試験問題が実に難解。百点満点をとろうとすると、大学院で真宗学を修めないと・・・。
とにかく三年かかってなんとか学科に合格。その後、「修練」という実地がある。冬の寒いときに、座布団もなく、朝から晩までしごかれる。
「信心とはなにか?」って討論させられる。最後は行き詰まって、「イワシの頭も信心じゃ」とやったら、「親鸞とイワシの頭を同じにするな」って、こっぴどくやられた。
くそたれ! あんたは学問はやっとるやろが、心は信心じゃねぇ。
拝読文の資格? 声明講習?
何でもかんかでも「冥加金」なる礼金ばっかりとりやがって。
何やら「家元制度」みたい。小出しに教えて月謝ばかりとってるどっかのお師匠さんみたい。
私ゃ全部テープやビデオで憶えた。
まあ、とにかく済んだ。
寺は荒れていた。「なにやら時代劇で、不逞の浪人が寝ぐらにしてる寺みたいやなぁ」と言ったら、檀家総代がえらい怒ったけど、そらホンマのことやった。
第二次大戦で、住職後継者は招集され沖縄戦で戦死。それでなくても少ない仏具も「金属供出令」で持って行かれて鉄砲の弾に。
まず手始めに、梵鐘の再建から始まったのが昭和51年のこと。以来、毎年大晦日は、村中の人たちが撞くこととなった。今では、その時に抱かれて来ていた人が、子どもを連れて来ているのだから、年月も経ったものだ。門徒の方よりも見知らぬ人の方が多いのが宗玄寺の除夜の鐘だ。
次は本堂の屋根の葺き替え。塀の改築、鐘楼の大修理、庫裏の改修・・・・。荒れていた寺も蘇ってきた。
「お布施も欲しいけど、それより仏具が欠けているので、現物お供えを・・・」と。そうこうしていると、仏具もほぼ揃ってしまった。
内陣の修理、金箔の張り替え、宮殿の修理などは全部自分でやった。仏具屋さんから材料だけ仕入れてもらって毎夜挑戦。本堂の中は見違えるようになってしまった。漆塗りに金箔張りは独学ですぞ。
組長が当たってきた。三年間の組長の時は、門徒研修会を継続的に実施してきた。そして、その間、二つの寺の住職を兼務。夕方に役所から帰るやいなや法服に着替え、祥月命日、逮夜詣り・・・・。土・日はほとんどが法事。夜な夜な黒い着物を着てウロチョロするのは泥棒と宗玄寺の住職だ。
遠くでの研修会には三つの寺の門徒さんと一緒にマイクロバスで。運転は勿論住職。卒業後に大型免許、電気工事士など、沢山の資格もとった。
一番大変なのはお盆と正月。この地方では真宗でもお盆詣りというのを一軒づつ行く事になっている。お盆が過ぎると「在家報恩講」がこれまた一軒づつ。これはまだ良い方だ。少しづつ日をずらせばこなせるが、お正月の修正会は三つの寺で同じ日にしなければならない。
宗玄寺での除夜の鐘に引き続いて修正会をし、ちょっと一杯とやって陽が登ったら隣りの寺の修正会。そこでも新年を賀してちょっと一杯。そして10時にはもう一つの寺の修正会。そこでもやはりちょっと一杯が付いて回る。トイレへいって戻ろうとしたら、バタンキューと倒れてしまった。
「えらいこっちゃー。おーっさんが倒れとるー」と大騒ぎになった。
兼務住職といっても、お布施の出る時だけ寺へ行くなんてのは真っ平だ。空いている日曜日は弁当持参で寺へ行って、あちこち修理したり整理したり。三つの寺の過去帳を調べ上げ、門徒さんには自分の家の過去帳を持ってきてもらい、最後はお墓を1つずつ調べ上げ、過去帳のコンピュータ化をした。これには三年かかった。お陰で今ではボタン1つで年回法要の検索から全てパソコンで出来るようになっている。
蓮如さんが本願寺の中興の祖なら、私ゃ宗玄寺の中興の祖だ。
やると決めたら徹底的にやる。矢でも鉄砲でも持って来い。山より大きな猪は出ねぇんだってーの。そんじょそこらの、親の七光りでおだてられていい気になってるボンボン住職とは訳が違うってーの。貧乏寺だからって、ひがんでばっかりいたって解決はしねぇっつーの。
勉強


定年を残して退職することになった。元気な内に退職して、本来の住職の道に戻りたかった。そして40歳の頃からよく夢に見ていた大学へ戻りたいということの実現を。
キャンバスというものが私を待ってくれていると思うと、胸がワクワクと踊り出す。親から仕送りをして貰った時には、ろくに勉強もしなかったが、今それを取り戻したい。若人と混じって、講義を聴き、ノートにペンを走らせるのだ。
真宗を、いや、仏教を学ぶというのは自己を知るということなのだ、という道元禅師の示唆がある。まだ手遅れではない。自己を知りたい。
毎週一日、京都まで通っている。若い学生達と「学食」で昼食を取り、講義のノートを取っている。実に充実した満足感が私の身を包み込んでいるのだ。
H15-16年頃の記事 旧ホームページからの移転