宗玄寺沿革

沿革

宗 旨     浄土真宗
宗 派     真宗大谷派
本 尊     阿弥陀如来立像
開 創     慶長2年5月21日 (1597年)
木佛御免    寛文3年11月11日 (1663年)
太子高僧御免  延宝2年12月上旬  (1674年)
寺号御免    延宝5年2月15日 (1677年)
開祖親鸞御免  天和3年11月21日 (1683年)
本堂再建    享保7年4月17日  (1722年)
        (5世住持龍元の代に、播州三木町の大工勘兵衛により上棟)
内陣改装    寛延三庚午年十月朔日 (1750年)
        (6世住職淵龍代に、誓珍5代の孫鍵屋小市右衛門秀正が寄進)
        (内陣改装、格天井とする)
梵 鐘     安永5年3月20日鍛冶(1708年)
           丹波国多紀郡古市宗玄寺
               願主 恵龍
               施主 古市村壇越中
          治工統領(棟梁)
             丹波国氷上郡柿柴村住
              足立半右衛門尉藤原定家
          鋳物師手傳
            丹波国多紀郡篠山住
              長澤三右衛門尉藤原久継
              小田垣六左衛門尉家久
          初撞
              酒井三郎右衛門秀允母 釋受清
           (昭和17年11月22日(1942年)金属供出令により供出)
           (昭和50年10月(1975年)再建)
鐘 楼     安政元年(1854年)の大地震により破損
         明治27年3月10日(1750年)上棟再建
          棟梁  油井村大工利助

エピソード

 明智光秀の丹波攻めの時、丹波の酒井庄を統治していた酒井一族は、丹波篠山の八上城の波多野秀治と盟約を結んでいた。油井城主であった酒井上野介の2男は、二階堂の名跡を継ぎ二階堂秀香と称して八上城に立て籠もり、明智の軍勢と対峙していた。
天正7年(1579年)に八上城は落城し、秀香は捕らえられて安土で処刑されたとも、八上城で討死にしたとも伝わるが、その時3歳であった一子が油井城の家老職であった岡村某に養育されることとなった。
 長じて、丹波攻めで落命した父や一族郎党の追善のため、剃髪して別業(別宅)を草庵とした。酒井久左衛門秀朝を改め「誓珍」と号し、開創を慶長2年5月21日(1597年)のこととしている。誓珍21歳の時であった。
 誓珍の子は酒井三郎右衛門秀元と号していたが、父の後を継いで剃髪し「宗玄」と名乗り2世住職を継いだ。3世住職は宗玄の長男酒井三郎右衛門秀家(栄傳)が継ぎ、寺号免許になる時に父の名「宗玄」を寺号とした。
栄傳の弟の酒井三郎右衛門秀次は古市に出て豪商となり、「鍵屋」を名乗っていた。「木仏御免」など、諸々の経費を一人で負担し、寺としての体裁を整え、油井の地から古市の現在地に移した。


 江戸城松の廊下での事件により、浅野内匠頭切腹・領地召上げとなり、藩士は悉く離散した。この時、不破数右衛門の実父岡野治太夫は、隠居して播磨亀山に移っていたが、ほどなく治太夫の実妹「おさよ」(通称「熊」)の婚家である古市の鍵屋という造り酒屋(おさよの夫=酒井三郎右衛門)を頼り来て、治太夫夫婦と数右衛門の二児(大五郎と鶴)と共に寄食し、その後、更に鍵屋の菩提寺である宗玄寺の屋敷に寄寓していた。
 数右衛門は密かに復讐の一味に加わり、その機会を待っていたが、生前に両親や2児に会わんと、江戸より播磨を訪ねたが、古市に移住していると聞き、人目を避け不来坂峠から村人を使いに立てて母と会うことになった。母は二児と共に不来坂峠に出て数右衛門と出会ったが、二児を残して寺に引き返し、自分の白無垢の襦袢を急ぎ仕立て直し、わずかな銭を持って戻り、復讐の挙あらばこの襦袢を着て、母と二人の働きを為すようにと、尽きぬ名残を惜しんだ。
 本望を達したあと、自刃に先たち松平公より特に遺言が認められ、襦袢は母に、小刀は長男「大五郎」に、また笄(こうがい=櫛の一種)は長女「鶴」に送られるよう遺言し、松平公の家臣により宗玄寺に奇遇する遺族に寄せらた。
 大五郎は類難を避けるため、篠山の大膳寺(禅宗)に入って出家し「大雄」と号し、鶴は宗玄寺の縁戚の神戸御影東明村の照明寺へ預けられ、長じて照明寺住職の弟「宣隆」の妻となった。鶴の娘の「るい」は宗玄寺6代住職淵龍に嫁し、その子孫が今も数系統に続いる。

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