何かを得たいから宗教を信じるというのは、人情としてはわからないでもない。
こうあってほしい。
こうならないでほしい。
と、自分の思いが叶って欲しいと思うだろう。
その典型的なものは、
丈夫な赤ちゃんが欲しい
○△学校に受かって欲しい
□◎のような所へ就職したい
△□のような人と結婚したい
それを繰り替えし、延々と我執が輪廻転生する。
無病息災を願っても、いつかは病を得てサヨナラせねばならないのはこの世に生まれた宿命だ。
「死にたくない」と願っても、避けて通ることは出来ない。
ところが、人というものは、欲望を叶えてもらいたいがためには、あっちにもこっちにも。「下手な鉄砲は数打てば当たる」式に、神であろうと仏であろうと、委細構わず頼みまくるのだ。
元来、宗教とは、「自分の欲が実現しますように」と頼むものではない。人情としてはわからないでもないが、そういう具合に都合の良いものではない。
みんながそれぞれ思い通りになるとしたら、いったいこの世はどうなるか? 残酷だが、自分の思い通りにならないのが現実なのだ。
仏教は何かを得るため術ではなくて、身に付いている「我執」を取り去っていく道、つまり捨てていく先に自己を見いだす人生哲学なのだ。
日常の中のちょっと意外なことを紹介しよう。
☆昔から真宗門徒は阿弥陀さんだけで、脇見をしないということから「一向宗」と言われてきた。
ところが実は門徒さんの家に行くと、神棚があるのは当然のこと。これは明治に、「みんなどこかの氏子になれ」というお触れが出たために、日本中がそうなったのだが、獅子舞のお札、どこかの神社のお札、蛭子さんの吉兆、お不動さんのお守りetc etc。有るわ有るわ。便所の神様、へっついの神様、井戸の神様、etc etc。
これらはみんな、「お願い」をしてきた証左なのだろう。
いくらく力んで説明しても、ものの20年もすれば元の木阿弥になっている。家族間で「相続」が出来ていないから、次の世代はまた一からやり直しになる。次の世代が純粋無垢であれば良いが、世間の垢にドロドロにまみれ、迷信・俗信に染まりきっているから始末に悪い。
中には、「婆ちゃん、寺へお参りしよう」と言うと、「わしゃ まだ早い」と言うとか。何時になったら時機到来なのか?
仏教とか寺というものをどこかでボタンの掛け間違いをしてしまって、すっかり意味が違っているのだ。
坊さんも、もうヘトヘトになって説明する元気も湧いてこない?
☆お葬式の後には中陰壇というものをつくって、そこにお骨を置く。お骨の前には花、蝋燭、線香、お仏飯、お菓子、コーヒー、ワンカップ、煙草、バナナ、リンゴ、ぼた餅 etc etc。ありとあらゆる欲望の具現化したものを置きたくなる。
エライ失礼千万だが、お骨というものは、つまり究極の所は「人間の燃えかす」だ。つまり「燃え残ったゴミ」だ。
インドのガンジス河では、今も川岸で死者を荼毘に付し、燃えかすは箒で履いて河へ流してしまう。
ところが我々は、後生大事に焼け残った骨を持ち帰ってお祀りをしようとする。
親の骨だと思うと、いくらゴミだと言ってはみても、その辺にポイっと捨てるわけにもいかない。何か後ろ髪が引かれるというか、何とも言われぬ感情がある。だから、納骨というケジメをつけることになる。どこかへ納骨という儀式をすることによって、気持ちの整理・ケジメがつくわけだ。
真宗は「骨拝教」だといった人があるが、いや、やってることの表面を見ればその通りだ。
「やがて私も骨になる。だから大事に生きていく」という自覚が生じない限り、やってることは「燃えかす崇拝教」だ。
☆そもそも仏教というものは、「我を捨てる」ということが命題なのだ。つまり「欲しい欲しいと思う心」を捨てるということなのだ。
捨ててしまった後に、何が残るのか。その「残ったものは何か?」を己が見るというのが仏教そのものなのだ。
子どもの頃に川で「かえ捕り」というのをして、小魚を捕まえたものだ。石や砂などで川の浅瀬を囲んで、囲いの中の水を必死に汲み出す。これを「水をかえる」という方言がある。
水をすっかり汲み出すと、中に小魚がピョンピョンと跳ねているから捕まえることができる。
仏教はこれと同じだ。「欲しい欲しい」と思う水が心の中に一杯詰まっている。これをくみ出して捨て去ると、最後に何か残る。それが私の「本性」なのだ。その「本性」を見ることが、実は仏教の目的なのだ。
「欲しい」という水を汲み出した後に何も残らなかったら、「私は何をしにこの世に生まれてきたのだろうか?」と考えてみれば良い。
☆「私は無宗教です」と言う人がいる。ゆっくり持論を聞いていくと、「実はそれこそが仏教の論理である」という場合がほとんどだ。無宗教と言っている人が思っている宗教は、実は宗教ではないということに本人が気付いていない。無宗教と言っている項目は、コミュニケーションの煩わしさ、儀式になじめない、教義がわかりにくく判断できないから毛嫌いする、というようなことに大別出来る。無宗教といわれている人にも、その人なりのきちんとした宗教的倫理をお持ちなのだ。
☆最近また別の宗教が蔓延し始めた。それは◎□会館などという葬儀社の会員になって、毎月?会費を支払って、万一の時に会員権を使って葬儀をしてもらうというものだ。つまり、◎□葬儀社の檀家になっているのと同じだ。
なぜそういうかと言うと、現実に葬儀を葬儀社が仕切っていこうとする場合があるということだ。葬儀を執行するのは僧侶である。葬儀がスムースに執り行われるようにサポートするのは葬儀社だ。それが時に逆転する。僧侶も僧侶だ。何もかも任せてしまえば楽だわなぁ。
傑作なのは弔電の読み順だ。司会者は「順不同にて拝読いたします」と言うのだが、いえいえ決して「順不同」ではない。社会的身分(肩書き)の順は決してランダムにはなっていない。いつも、国会議員・県会議員・市長・市議会議長・勤め先の社長という序列である。葬儀社さんを含めて、弔電の場合に使う「順不同」というのは、私が聞き間違いをしているだけで、「順不動」なのである。決して弔電をトランプを切るようにはしていないのだ。
☆仏教というものは、葬式をするためのマジナイではない。自己を知るための「探求の道」なのだ。葬式は、「自己を探求する人生の旅」を一緒に過ごしてきた仲間を送るための、ほんの些細なお別れのご挨拶にしか過ぎない。葬式を執行することが本来の目的ではない。時々、葬儀式が終わっていよいよ出棺という時の喪主の御挨拶に面白いものがある。本人は至ってまじめに考えたものなのだが、「とどこおりなく葬儀式が終わりまして・・・・・」と言う。「とどこおりなく」式が終われば万々歳なのか?と、首を傾げてしまう。儀式をスムースに終わらせることが葬式の骨子ではないのだが。
時には、いったい誰のためのお葬式をしているのかさえわからなくなるようなことも。喪主の勤め先の人たちが来てくれることへの配慮の占める割合の如何に大きいことかと。ひたすら参列者に対しての気配りは可哀想に思える。
そして、そのことがわづらわしくなって、「密葬」とか「家族葬」という形へ移行しつつあると思えるのだ。特に都市部では、ご近隣のおつきあいが希薄になり、どうしてもそういう形にならざるを得ないと葬儀社さんが言っていた。そしてまた、宗教的儀式も省略して、「直葬」というものが多くなっているという。「直葬」というはどういうものかと調べてみたら何のことはない。役所で埋火葬許可証をもらえば、斎場の火葬炉へ直行ということだという。それが悪いと言うのではない。宗教儀式をしなければならないという根拠はどこにもない。そういう方法があっても良いと思う。お墓を作らずに「散骨」をされる方もある。散骨が認められる条件さえ整えば、それも良いと思う。亡くなれば、宗教儀式をしないと亡くなった方や遺族に対して、とんでもない差し障りがあるとは言えないからだ。
☆仏教というものは、葬式をするためのマジナイではない。自己を知るための「探求の道」なのだ。葬式は、「自己を探求する人生の旅」を一緒に過ごしてきた仲間を送るための、ほんの些細なお別れのご挨拶にしか過ぎない。葬式を執行することが本来の目的ではない。時々、葬儀式が終わっていよいよ出棺という時の喪主の御挨拶に面白いものがある。本人は至ってまじめに考えたものなのだが、「とどこおりなく葬儀式が終わりまして・・・・・」と言う。「とどこおりなく」式が終われば万々歳なのか?と、首を傾げてしまう。儀式をスムースに終わらせることが葬式の骨子ではないのだが。
時には、いったい誰のためのお葬式をしているのかさえわからなくなるようなことも。喪主の勤め先の人たちが来てくれることへの配慮の占める割合の如何に大きいことかと。ひたすら参列者に対しての気配りは可哀想に思える。
そして、そのことがわづらわしくなって、「密葬」とか「家族葬」という形へ移行しつつあると思えるのだ。特に都市部では、ご近隣のおつきあいが希薄になり、どうしてもそういう形にならざるを得ないと葬儀社さんが言っていた。そしてまた、宗教的儀式も省略して、「直葬」というものが多くなっているという。「直葬」というはどういうものかと調べてみたら何のことはない。役所で埋火葬許可証をもらえば、斎場の火葬炉へ直行ということだという。それが悪いと言うのではない。宗教儀式をしなければならないという根拠はどこにもない。そういう方法があっても良いと思う。お墓を作らずに「散骨」をされる方もある。散骨が認められる条件さえ整えば、それも良いと思う。亡くなれば、宗教儀式をしないと亡くなった方や遺族に対して、とんでもない差し障りがあるとは言えないからだ。
☆さりながら、特定の宗教を信仰するということであれば、それはそれなりにそれぞれの宗教においては「教義」というものが存在し、信仰の対象が特定され、儀式・作法というものが定められている。儀式や作法を変えることは、時代背景はもちろん、多くの要件の中からその教団で合意をする必要があるから、おいそれと変更ができない。いや、できないということで「暴走」や「教義の逸脱」に歯止めが掛けられているのだから、そのことはひとまず差し置いて考えねばならないが、特定の宗教を信仰するとなれば、やはりその教団の指定する方法というものを実行することになる。
例えば真宗では「称名念仏」というのだから、「なんまんだぶつ」と唱えることになる。手を合わせて向かい合うのは阿弥陀仏である。それを、いや私は真宗ですが「アーメンと唱えて、シバ神に向かって礼をします」となれば、「これっていったいどういうことか」となる。
実はこんな極端なことではないが、厳密に見分けると、おかしいことが一杯あるのだ。それが日本の宗教観と言ってしまえばそれまで。私の論を人は「原理主義」と言うかも知れないが、それではお寺は、いや宗教は、煩悩我執に対する癒しとして存在するのであろうか。
☆癖はついつい出てくるものです。大きなお寺へお参りすると、正面に大きな香炉が据えられ、中で線香がモクモクと煙を上げている。その煙を手で自分の頭や胸に招き寄せている人がある。多分、線香の煙を当てると、悪い所に効き目があるのかも知れない。が、だ。あるとき、吉兆笹の古いのを持って来られて、焚き火の中へ投げ込んで燃やしていると、その煙を頭や胸に・・・。「ゴミ焼却の煙は、どんな効き目が有るんだろうか?」。人ってついつい癖が出るものです。
そもそも香の煙を体に擦り込むのは、清々しい香りを身につけるためであって、「匂い袋」を袂の中に忍ばせておくのと何ら変わりないのだ。清々しい香りで、自分の気持ちを安定させるための事なのだ。ゴミの匂いをミニし見込ませてどうするのか?
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