凡そ命のあるものの一生は、「鶴は千年、亀は万年」と言うが(本当はそんなに長くは生きない)、長く生きるものもあれば、ウスバカゲロウのように一夜だけの成虫もいる。
ウスバカゲロウの一生の99%は乾燥した土の中にいて、擂り鉢状の穴の底に潜んで、穴に落ちてきた虫を食べる「アリジゴク」である。何ともグロテスクな形のアリジゴクが一夜だけトンボのような形になってヒラヒラと飛び交う。カゲロウの仲間はほとんどが一夜だけの成虫だ。
星空を眺めていると、この星々の中に地球のように生き物のいる惑星を持っている星が幾つあるのだろうかと考えてしまう。
地球が出来て45億年という。私はその中で僅かに68年間だけ命を持って今まで生きて来た。地球という星から見れば、誠に誠に一瞬にしか過ぎない。今までの68年間にどんな生き物と出会って来ただろうか。虫も蛇もヤモリも。犬も猫も人も。
間もなく秋のお彼岸が来る。
彼岸というのは「彼の岸」ということ。ということは、「此の岸」というのがあることになる。つまり「彼岸」と「此岸」は一対になっているのだ。
先ほどの命あるものとの出遭いを考えると、「此岸」から「彼岸」へ渡る渡し船に同乗した舟の乗客ということになる。
「呉越同舟」という言葉もあるし、「袖すりあうも他生の縁」というものもある。
ここに自分が存在することすら不思議な奇縁であるのに、さもこの世に生まれて生きているのが当然のように錯覚して毎日を送っている。仏教ではこの世に生を受けることが「他生の縁」によるのだという。
私を「うん」とうなずかせてくれた先生の言葉に、
私は私であって良かった。私が私であったから、私はあなたに出会えた。あなたに出会えて良かったと言える私になります
と。
我が家に5才になる猫がいる。猫を膝に抱いて夜空を眺めていると、「この猫に出会ったのも、お互いの他生の縁によるものなのだなぁ」と思った。
「縁」によって生を受け、「縁」よって出遭うておるにも関わらず、その「縁」を切っていこうとするもう一人の私がおる。そのもう一人の私を仏教は「我」という。
「我を捨てよ」と教えられ、「我によっておまえは自縄自縛されておる」と教えられているのに、何故か「我」を捨てられない。「我」を捨てられないことに気づいた時に、
私は『我』と共に生きねばならないのだ。
と言うことを自覚せよと教わった。
「私は自由奔放なのだ」ということではなく、「私はもう一人のエゴの塊の自分に縛られて生きている」ということなのだ。
如来の願船いまさずば 苦海をいかでかわたるべき
と読まれた親鸞さんの境地をほんの微塵ほどにうかがい知る歳になってきた。
南無阿弥陀仏という言葉になって、「大事に生きてね」と願われている私をすぐに忘れてしまう。
(2012.9.4)
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