法事よもやま



 昔、と言っても今から50年ほど前の話。田舎の法事はのんびりしていたらしい。先代の住職の話である。
 春先の長閑なある日、農家の法事に行った。ひとしきりお経があって、ほんの少しのお説教があって(私はダラダラと長いので厭がられている?)、お墓参りがあって、そしてそろそろお昼が少し過ぎていた。

 お住っさん。今日は親父の33年やから、ゆっくりしてもらおう思うて、スキヤキにしました。

 鍋を囲んで談笑し、カシワ鍋をみんなでつついた。久しぶりのカシワ鍋だったので、実に美味かった。日も西に傾くまでにテクテクと寺へ歩いて帰るため、「そろそろ失礼するぞ」と、縁側から庭先に降りた。(縁側から出入りするのは坊主と猫だそうな)

 そこで住職が、ヒョッ!と思い出した。

 確か、朝方に来たときは、コケコッコー と庭を走り回っていた奴がおらん。鶏小屋にもおらん。どこにもおらん!

 ありゃー! くだんのコケコッコーは、住職をはじめ、法事に来ていた人々の胃袋の中に収まっていた。
 
 長閑のどかと言えば長閑。○○○と言えば○○○。
 可笑しくもあり 悲しくもあり。
 善人なおもて往生とぐ、いわんやコケコッコーをや ????

 真宗の法事は何やら難しい。いや、私が難しいのかも・・・?

 仏具を磨け。花を供えろ。供物は餅だ。お経はなるべく一緒に読め。ご馳走に気を配るな。

 他宗の仏壇の中にある仏具(燭台・花瓶・香炉など)は、千徳と言って黒ずんだものか、中には真鍮のものもあるが、あまり磨かれているものを見たことがない。磨かない方が良いという御仁もある。
 しかし、我が宗では、真鍮の仏具はピカピカに磨きあげるのを倣いとしている。いわゆる「お磨き」というやつである。

 それも正式?には、年に5回は磨くのが通例のようだ。正月前、春の彼岸、お盆、秋の彼岸、報恩講と。
 祥月命日にはこれと別にお磨きもし、打ち敷きもかけて、入念に仏壇(お内仏)を荘厳する。そうすることによって、ピシッと気持ちも引き締まる。「親父のご命日を迎えるのだ」と言う気持ちになってくる。

 それが最近、どうもと思われる節がないでもない。ご馳走の方に気を取られるのか、ご馳走はいたって豪華なのだが、肝心カナメのお仏壇が何とも荘厳に不満がある。

 形にこだわる必要は更々ないと言えば嘘になるが、しかし、折角のお仏壇があるのだから、それはそれなりの荘厳があってしかるべきではないか。

 春、お雛様を飾るときは、カタログの写真を見て、やれ右だ左だ、上だ下だときちんと飾るのに、どうして法事の時はそれができないのか。

私には、そのことがずーっとこだわりになってしまう。


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