オタマジャクシは 蛙の子
ナマズの孫ではないわいな
それがなにより証拠には
やがて手が出る 足が出る
という歌があります。この歌、おもしろいですねー。
オタマジャクシが蛙になるというのは、そうなっていくことを何らかの方法で知っていなければ、とてもオタマジャクシが蛙になるなんてあの姿からは想像もできません。実際に飼ってみるとか、本で絵をみて知っているとか、あるいは誰かに聞いて知っているとかでないと。
ところが、このオタマジャクシを飼うときに、誰が(猿とか、ロボットとか、とにかく人間でないもの)餌をやって育てても、成長すると必ず蛙になるのです。そして、初夏になると相手を求めて求愛の鳴き声を立て、やがて水辺に卵を産み付けます。中には、普段は山の中に棲んでいて、その時期が来ると、水辺の上に出た枝に卵を産み付けるモリアオガエルというのもいます。
秋が来ると、土手に穴を掘って冬眠に入ります。そして、雪がとけ、春がやってくると、冬眠からさめて出てきます。そうやって、蛙は蛙の人生(?)を、親に教えてもらうことなく、ちゃんと過ごしていきます。オタマジャクシとして生まれたときから、蛙としての生き方を備えているのです。本能と言ってしまえばそれまでかも知れません。
ところが、人間はどうでしょうか。人間の形になって生まれてきますが、人間は放っておけば必ず人間になるでしょうか。オオカミに育てられた少女の話は有名です。人間がオオカミに育てられるとオオカミになってしまったのです。人間は人間に育つための本能を備えているのでしょうか?
つまり、人間とは、学習の成果物なのかも知れません。コンピュータの中にソフトが入っていなければ只の箱にすぎないのと同じように。
そこで問題は「人間」ということです。人間というのはどういう存在であればいいかということかな?
人間に生まれて人間を生きるとは、いったいどういうことなのでしょうか?
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