道綽決聖道難証 唯明浄土可通入
道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす。
(京都教区だよりより転載)
聖道とは、釈尊が歩まれた道を自らも同じように歩み、釈尊が覚られたように自らも覚っていこうとする歩みです。
このような仏道の歩みに対して、私たちはともすると、「聖道」は自力であり、難行である、という点だけで考えてしまいがちです。
そして、自分は他力易行の浄土真宗を立場とする者である、というふうに無意識のうちに考え、「聖道」という在り方よりも自分の立場の方が優れているかのようにどこかで考えてしまいます。
しかし、よく考えてみると、「聖道」という仏道が自力・難行ということで特長づけられるような在り方であるにせよ、その仏道の歩みの出発点には、人生を歩もうとすることへの「ひたむきさ」、あるいは「真面目さ」というものがあることを私は感じます。
その点から言えば、浄土真宗ということを立場とする私たちが、自力・難行という在り方であるからという理由だけで、「聖道」という仏道の歩みを価値付けているとするならば、そこには大きな問題があると思います。
親鸞聖人は、道綽禅師の果たされたお仕事を、「道綽、聖道の証し難きことを決して」と確かめられますが、その言葉に表現されるのは、道綽禅師が「聖道」という在り方において仏道を歩むことは困難であると決定された、ということだけです。
つまり、道綽禅師が明らかにされたのは、「聖道難証」という決定だけであって、それは「聖道」に対する価値判断ではありません。
私たちは何よりもこのことに対して充分な注意を払わなければならないと思います。
それでは、道綽禅師が「聖道難証」ということを決定されたところには、どのような姿があり、どのような感情があったのでしょうか。
改めてそのことを考えてみるとき、道綽禅師はひとたびは「聖道」という在り方において仏道を歩まれた方であるということが、まず注意されます。
したがつて、道綽禅師の「聖道難証」という決定は、道綽禅師が自らの歩みを通して明らかにしたことなのであって、決して「聖道」という仏道の歩みを自分以外の他人事として受け止めたり、他の人の立場として対象化した形で問題としたうえでの結論ではありません。
その点に私たちが自らに確認しなければならない、仏道に対する一つの姿勢があると思います。
道綽禅師は、釈尊の入滅ということを通して、釈尊は衆生にいったい何を教え示してくださった方であるのかということを明らかにする『涅槃経』を深く学ばれた方です。
そこには釈導の弟子・仏弟子として生き抜こうという道綽禅師の決意があったことはいうまでもありません。
しかし、おそらく道綽禅師にとって、自分が仏道を歩もうとするなかで問題となったことは、釈尊入滅の後の「時」を「今」として生きる自らが、釈尊の弟子・仏弟子として生きるということは、いったいどのようなことであるのか、ということであったのだと思います。
その問いかけのなかで道綽禅師は、いかに釈尊が歩まれた道を自らも同じように歩もうと、ひたむきに、真面目になったとしても、目の前に仰ぐべき釈尊がいらっしゃらないという致命的な事実があるということを、深い悲しみと傷みの感情のなか凝視されたのではないでしょうか。
その事実に正直になるとき、いかにひたむきに、真面目に釈尊が歩まれた道を歩もうとしても、それは必ずしも釈尊の「教え」を、時代と人間の現実、つまり自己自身の現実において仰いでいることを意味するものではないということが、道綽禅師にとって問題となったのではないかと思われます。
自分がいくらひたむきに、そして真面目に生きているといっても、実はそれは自分自身の想いに対しての「ひたむきさ」「真面目さ」ということであるかもしれません。
もしそうであるならば、それは私たちが仰ぐべき釈尊の「教え」に対してひたむきであり、真面目であるのではないと言わなければなりません。
人間が釈尊を仰ぐということは、何よりもまず釈尊の「教え」を仰ぐということなのであり、さらには自らが生きる時と自己自身の現実において、釈専の教えを仰ぐということである。
このことを確認することから、道綽禅師は「聖道難証」と言い切られたのだと思います。そこに釈尊入滅の後の「末法五濁」と言われるような、混迷した人間の情況のなかに身を置く自らを見据える道綽禅師の眼と、それでもなおかつ、徹底して釈尊の弟子・仏弟子として生き抜こうという志願の厳しさがあることを私は感じます。
親鸞聖人が道綽禅師の生涯を通して、まず第一に学んでいこうとされたのは、人間がいかなる時、いかなる情況にあろうとも、釈尊の弟子・仏弟子として生き抜こうとする姿勢と志願であったと思います。
「聖道難証」という言葉が、私たちにとって本当に大切な意味を持つ言葉としてはたらくのは、その道綽禅師の姿勢と志願に呼応すること、つまり私が仏弟子として釈尊の「教え」を仰いで生き抜こうとすること以外の立場にはありません。
それは言い換えれば、私たち一人ひとりが、釈尊の弟子として生きようとする姿勢と志願のもとに、現に今生きているのか、ということの確認を迫られているということです。
私たちが浄土真宗の門徒としてあるということ、そして念仏者として浄土を願うものとしてあること、その原点にまずどんなことにも先だって確認されなければならないのは、私が釈尊の弟子として、本当に釈尊の教えを仰ぐ者として生きる者となるという一点であると思います。
大谷大学 三木 彰円
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