努力して見ること


努力してみる」ということは、実は大変なことである。私は学生時代の4年間、ずっとマジックをやっていた。大学に入る時にマジックと出会ったのだ。それは入学試験の時に偶然出くわしたマジック用品売り場で実演を見てしまったことにある。この不思議な芸を何とかマスターしたいと思ってしまったことにある。

 入学と同時に、時間があればマジック用品売り場を覗く日課となってしまった。一つ買い求めては学生寮で毎日練習。そのうち売り場の人(師匠)が、この売り場でバイトをしてみないかと誘うようになった。但し条件があった。売り場でバイトをする以上、すべてのタネがわかってしまうことだ。つまり「タネ明かし」と「指導料」とを差し引くと私の手元にはほとんど給料らしきものが入らないという仕組みである。それでもマジックの魅力の方が私を虜ににしてしまっていた。

 初めての夏休み、帰省しても毎日カードの練習の毎日だった。指の股が切れ、まさに血のにじむ1ヶ月が過ぎた。ミリオンカードやファンカードが秋にはできるようになっていた。チャイナリングもシルクマジックもクローズアップマジックも、努力を重ねるとできるようになっていた。当時の関西での学生の間では、おそらく私が初めて「鳩出し」をしたものだった。やがて師匠のやっていたマジック教室の師範代をも任されるようになった。

 その頃、松竹芸能に所属していたゼンジー中村さんが私をそれとなく「学生マジシャン」としてデビューさせようと誘ってきた。彼の芸を初めて見たのは道頓堀の「角座」。その夜は曾根崎のキャバレー「白馬車」での彼の華やかなステージであった。私はプロマジシャンへの道を大いにそそられたのだが・・・。高校を出るまではマジックなどというものには全く出会うこともなかった私だったのに。自画自賛ではないが、大学を出る頃には、もう一流の腕前になっていたのだ。

 「努力」とは、毎日練習を継続して、前に向かって進んでいくことだった。人は、「あなたは器用だから」と言う。しかし、私はそうではないのだ。器用というのは、見よう見まねでなんとか「ごまかす」ことを言うのだ。私には、寝食を忘れるほどの練習という「努力」を積み重ねた結果なのである。それは今になって再確認することである。

 この歳になってサキソフォーンの練習を始めている。毎日30分ほど続けて、もう50日を経過した。初めは楽譜すら理解できなかった。サキソフォーンを手に入れる前に中学校の音楽の先生に、「全くの初心者だが、1年後には吹けるようになりたい」と尋ねに行った。先生は何とも怪訝な表情で、「中学生でも3年間毎日練習してやっと何とか吹けるようになるんですが・・・」と。クラリネット用のマウスピースの不要品を私にくれて、「吹いて音が出たら何とかなるかもしれない」と言うのだ。2~3度吹いてみると、とにかく音が出た。「サキソフォーンでも音が出るかも・・」と、慰めとも呆れともいうような、そして励ましのような言葉をかけてくれた。そして、楽器屋さんも紹介してくれた。

 私は今までの経験から、出来ることと出来ないことのあることを十分承知している。百メートルを11秒で走ることは私には不可能である。そして、フルマラソンを完走することも不可能である。持って生まれた体力が適合していないからだ。しかし、サキソフォーンは練習すれば出来ると思った。たとえ肺気腫の持病を持っていようとも、車のタイヤに口で空気を詰め込むほどの力は不要なはずだ。あのか細い女子中学生だって堂々と吹いているではないか。体力でないことであれば、人様の2倍も3倍も努力すれば必ず出来るということを経験してきた。メジャーリーグのイチロー選手だって、持って生まれた天才ではなく、人一倍の努力の成果であることは衆知のところである。

 今でこそ人様の前でお話をしたり、はたまた京都会館のステージでマジックをやったりして来たが、私は幼稚園の頃は、学芸会に出ることはまさに地獄のようなもので、親が言おうが園長さんが言おうが、頑としてみんなの前に出ることを拒絶したものだ。おまけに小学校1年生の間は、母親が教室の後にいないと学校へ行かなかったものだ。毎日が参観日であったのか、毎日保護者同伴であったのか、その時の気持ちは今もってよくわからないが・・・。亡くなった母からよく言われたものだった。「あんな子どもだったのに、まあよくもステージでマジックをやったり、他人様の前でお話をするようになったなんて・・・」と。

 このページを読んでくださる方に私は言いたい。「人様の出来ることは、努力すれば出来る可能性がある」ということである。「私には出来ない」と、やりもしないうちに決めつけないこと。「私には出来ない」と、ほんの少しだけやって投げ出さないこと。「努力」の数だけ「成就」がやってくるのだ。失敗を恐れず、コツコツと積み重ねることが大切であるということだ。

 今夜のテレビで美容師の卵と若い女性のマジシャンのことを放送していた。『一期一会 才能と努力の話 ~美容師見習いVSマジシャン~』という番組であった。若き女性マジシャンは、「私は不器用だったが、努力をしたんです」と言っていた。そのあと、『スマステ!! 必殺仕事人を大特集』という番組では、藤田まことさんが、どんなに努力したかという話題であった。それを見てこのページを書く気になった。

 メッキはやがて禿てしまうが、コツコツ努力して得たことは一生ついてくる。私が若き頃に努力した手品は、今はもう殆ど演じることはなくなってしまったが、それでも2~3度練習するとやっぱり出来るのである。出来なくなってしまったのではなく、ちょっと休眠しているに過ぎないのだ。

 これから何かをしてみようかなと思っている方へ。

 「私には出来ない」と初めから投げ出さず、功を焦らずコツコツと積み重ねることが物事を「成就」させる道なんだということをわかって欲しいものだ。

 「荀子」という書物の中にも書いてある。『道遠きといえども、行かずんば至らず。事小さきといえども、為さずんば成らず』と。

 手をこまねいているだけでは、あっという間に一生が過ぎ去っていく。「なさけねぇーぞ!!」。爺も婆も、ひねもすコタツに入って、ボーっとテレビばっかり見ていて、どう生きようとしているのか?。

 私はたくさんの事に挑戦してきた。そんな私が言うのだから。人は器用だから出来るのではなく、努力するから出来るのである。

 言い訳ばっかり言うのではないのだ。言い訳の人生を送って、それで、良かった人生と言えるだろうか?。

 親鸞さんは「あきないもせよ すなずりもせよ」と仰った。一生懸命に生きていけと言われたんだろう。

 この春、もう一度、いや三度目の大学講義を受けに通おうと思っている。「歴史学」の教室が私を待ってくれている。

 蓮如さんは「寝てもさめても、いのちのあらん限りは」と申された。今、私の枕元には楽譜集が置いてある。

 書いているうちに日付が変わってしまった。

2008.3.9


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