ぶり大根


 夕方のNHKのラジオを聞いていたら、「割烹着」のテーマで番組が放送されていた。野球中継が長引いて、本来の時間が相当短縮されていたが、ゲストは作家の阿部穣二さんであった。

 阿部穣二さんと言えば、「塀の中の懲りない面々」という作品で有名な方である。朴訥とした語り口で、子供の頃の割烹着を着た母や祖母の姿を語っていた。

 そう言えば、女性の真っ白な割烹着は、どことなく清楚で凛々しく、母は強しを思い起こさせる。最近はめっぽう割烹着姿を見ることがなくなり、お葬式の手伝いの時ぐらいが印象的なシーンになってしまった。

 そんな話しの中で、阿部さんの子供の頃の思い出の中で、

(阿部)割烹着を着たお婆さんが、栄養をつけてやろうと、ブリの頭をナタで割って、大根と一緒にグツグツと火鉢でよく煮てくれたものです。
 学校が終わって、町内まで戻ってくると、ブリ大根の煮えている匂いが漂ってきたものです。
 私は、その匂いが嫌で、ブリ大根を食べるのが嫌でした。
 今は、飲み屋に行って、ブリ大根があったら、真っ先に注文して、酒の肴にしているのにね。
 不良になったのも、ブリ大根が原因かも・・・・。
(女性アナ)まぁ! よくも他人のせいに所為せいにして!! 
(阿部)いゃー。他人の所為にすると世の中楽しく過ごせるんですよ。
 何事も自分の所為にするとしんどいのです。

 そんなアナウンサーと阿部さんのやりとりを聞いて、思わずガッテンしてしまった。それは、他人の所為にすると世の中楽しく過ごせるんですよ という言葉である。

 周りを見渡してみると、何でもかんでも他人の所為にして、愚痴ったり、文句を言ったり、責任転嫁したり、あるいは無理難題の要求をしたり。

 蟻とキリギリスという童話があるが、宵越しの金は持たねぇ なんて、良いときはパッパッと使い果たして、生活が困ってくると、やれ役所がどうの、アイツがどうの・・・。

 篠山でも、雪が降ると、家の前の道の雪かきをして欲しいと役所に電話が入るそうだ。都合の良いときは、権利と自由を主張するが、それに伴う義務と責任は負いたくない。義務と責任を負わずに生活するのはとても楽しいことに違いない。

 仏教では、義務と責任を放棄して、極楽浄土へ行けるとは説いていない。義務感と責任感に苛まれ、その苦しみを背負って、それを自覚して、極楽浄土へ向かおうとしているのだ。背負わず、自覚しないで生きていては、それは地獄を見るのですよと仏教は教えている。

 他力本願と言うのは、決して自分の責任を無自覚にしたままで救われるという、いわば得手勝手な生き様まで救おうとはしていないのである。他人の褌で相撲を取るという言葉と他力本願は全く違う意味なのだ。

 阿部さんは、とんでもない人生を極めたという。
 その人の口から出た 他人の所為にすると世の中楽しく過ごせるんですよ 何事も自分の所為にするとしんどいのです という言葉は、かつての自分の生き様を言い当て、そして今、そのことが人間として間違っていたことに気付いた言葉であったのです。

 早くそのことに気付くか、気付かずにそのまま人生を終わっていくのか・・・・。

 どちらが人間の生を受けた者の生き方なのかは、もうクドクドという必要はないと思うのだが・・・。


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