
バリアフリーというと、どうしても設備的な事を真っ先に考えてしまう。ある車いすの青年ドキュメンタリーを見て、改めて思い知らされた。
もう数10カ国を旅行しているが、日本の飛行機に乗ろうとしたら、車いすではダメと言われた。つまり、搭乗タラップが階段になっているのだ。車いすを降りて、手で這って登れると交渉していくと、万一の緊急事態の時に、90秒で自力脱出が出来ないとダメとも言われた。外国では同じ機種の飛行機を利用するにあたって、何も条件はなかったという。
アメリカの学校に居たとき、ハイキングをすることになって、教授から参加するかどうかを学生たちに尋ねられた。青年は、「私も行けるのか?」と問い返したところ、「君は、行きたいのか、行きたくないのか」と問われたという。「行きたいです」と答えたら、みんなでその青年が参加出来る方法を考えて実行したという。
重い車いすを代わる代わる運んでくれて、健常者と同じ楽しいハイキングが出来たという。
外国では、自分がしたいのか、したくないのかという意志を尊重して、その意志を遂行できる方法を考えていくが、日本では、まず設備や制度が先にあって、その範囲内で出来るかどうかを考えていく。つまり、本人の意思には関係なく、ハードやマニュアルが先行してしまうと言うことであった。
なるほど、そういえばそうである。
「あなたの希望は充分わかりますが、現行制度では出来ないのです。また、そうした設備も無いのです」と断って来たことが多かった。
振り返ってみると、いま、あちこちの駅でエレベーターの設置工事が行われている。しかし、その現行基準は、「一日の乗降客が何名以上の駅」となっている。一日わずかしか乗降客が無い駅では、エレベーターの設置はとうてい実現はほど遠い。
わが古市駅の下りホームは片側が断崖の山肌である。改札口は上りホームにしか設置されていないし、道へ出ようとすると当然、跨線橋を登り下りして改札口を出なければならない。もちろん駅員さんのいない無人駅である。
仮りに駅員さんや乗客の手助けがあって電車に乗れたとしても、古市駅に降り立った途端、途方に暮れてしまうのである。
「一人は万民のために、万民は一人のために」という言葉があったような気がするが、この言葉はウソである。万民のために一人が動かされても、一人のために万民は動かないのである。
共同募金は嫌で、赤十字社への社資も嫌で、そのくせ配分や恩恵には与りたくて、外れでもしたら文句タラタラ。助け合うことは嫌で、利益だけは配分して欲しい利己主義。
一人のために航空会社が協力し、一人のために教室の学友みんなが協力していく生き方と、一人のためには改善出来ないという生き方と、果たしてどちらが本当の人間性なのか?
バリアフリーとはいうものの、それは、設備のバリアフリーと、心のバリアフリーと、制度のバリアフリーがあったのだ。
JR宝塚線古市駅下りホームは、心と制度のバリアのこもった駅である。
「わしが死ぬまでに、下りホームにエレベーターを設置したい」
と言ったら、
「そんなん無理や。JRも赤字やし、市も、そんな金出すわけないやろ」
と言われた。
「あんたは今歩けるわなぁ。せやけど、今に年とって、車も乗れんようになって、電車を利用するしか仕方ないようになるで。下りホームに降りて、途方に暮れるのはあんた自身やで」
と言っておいた。
障害者や老人が住みよい町こそ、健常者も若者も子供たちも安心して住める町なのですが。
旧ホームページからの移転