瑠璃玻璃鏡


 「十王経」という経文がある。もちろん偽経といわれいてるものである。しかしその中に、亡者が6七日目に連れ出され、生前の行いを映し出す「瑠璃玻璃鏡」(るりはりきょう)といういう鏡があると説かれている。

 京都へ出かけるたびに、私はいつもその瑠璃玻璃鏡の前に立たされているような思いをする。

 京都へ行っての帰り、烏丸七条の交差点の脇にATMコーナーがあって、夕方になると一人のお婆さんがその脇に蒲団を敷いて寒い夜を過ごしている。

 観光客も通勤時間帯に行き交う人々も、誰一人も見て見ぬ振りをして通り過ぎる。その光景を見ながらも、何もしてあげられない無力感にひしひしと迫られながら電車に乗る。

 雨が降ると、あのお婆さんはどうしているだろうか、雪が降ると、あのお婆さんはどうしているだろうか、と、いつもそのことが頭の隅から離れない。

 路上生活を余儀なくされたいろんな理由があるのだろうが、気にはなっても手を差し伸べられない自分というものを、歯がゆく、情けなく、惨めに思う。

 イラクへの自衛隊の派遣も人道上の理由と言う。でも、足下には、寒風吹きすさぶ京の町中で、路上に蒲団を敷いて眠る年老いた女性の姿を見る時に、私の、表面だけが良ければそれでよいというエゴの姿を鏡で見せられているような気がしてならない。

 鏡に映し出された己の姿を見る時に、私は偽善者の仮面を被り、一つの命を見過ごしている悪鬼のように映る。

 そのことを京都の知人と話していたら、いつも持ち歩いているホカロンを、「これ使って・・・」と差し出した時、何とも言えない笑顔が返ってきたという事を話してくれた。

 保健所の敷地に寝起きしていた人があったが、やがて保健所は柵を設けて閉め出してしまった。じゃ、「ウチへおいでよ」とは言えなかった自分があったとも話してくれた。

 気には留めながらも、積極的に関わっていく勇気のない自分の姿を見るにつけ、人が人を大事にするということは言葉では簡単だけれども・・・・。

 お婆さんが眠りにつく七条烏丸近辺には飲食街もあって、食べる事は何とか凌いで行けるのかも知れない。しかし、極寒の路上で蒲団にくるまっている姿を見て、たとえ一つの物を提供しても、しないよりは値打ちがあるかも知れないが、それはその刹那の癒しにしかならないのではなかろうか。

 「生活保護法」や「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」の摘要も難しいのだろうか。

 暖房をつけ、ホームごたつに入って、衣食住に満ち足りた生活を送っている陰では、どうして良いのやら途方に暮れきってしまっている人も存在する。テレビからは、ただおもしろおかしく刹那を享楽することが良いのだと言わんばかりの番組が垂れ流されている。

 「開発をすることは、前が見えない暗闇を突っ切って走ってく夜汽車の運転のようなものだ。度胸で走っていくんだ」というトヨタの自家用車開発者の言葉を思い出した。

 誰かにドンと背中を押して貰えば、その度胸にもふんぎりが付くのだろうが、ふんぎりのつかない自分。もう一人の自分がいつも袖を掴んで離さない。


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