12月31日。大晦日の除夜の鐘や修正会の準備で、庫裏と本堂を行ったり来たり。
宗玄寺の除夜の鐘は、本堂ではお茶席が設けられ、外では焚き火を囲んで竹酒が振る舞われ、ぜんざいの接待、鐘を撞くとお土産の記念品まであたる。
盆得正損とはよく言ったもので、坊主丸儲けとはいかないように出来ている。住職も坊守もまあなんとあわただしいことか。
そんなあわただしい本堂の中へ、一人の門徒さんが入ってきた。
新しく貼り替えた法要繰り出しを眺めながら、「ウチは来年はおじいさんの法事やなぁ」と。
「ウチの婆さん、車で一緒に来たのに、寺へ行こう言うても来いひんねん。」
私は、その言葉を聞いてちょっとばかりか、相当に残念に思った。
ついぞ30年もの間、その婆さんが寺へ顔を見せた記憶がない。
寺は死んだら行くところと思っているのだろうか?。
それとも、言葉を交わすのが面倒なのか?。
賽銭が要るから?。
実は、誰しも、寺は死んだら行くところと思っているのではないかと想像している。
一般的な慣習として、葬式・施餓鬼・法事と、人の死に起因する行事しか寺にご縁がない。
だから、死んでもいないのに寺なんか行きたくないというのは頷ける。
私ゃもう結構歳を食っている。いつお迎えが来るか。我が家では一番の年寄じゃ。順番で言うたら、次は確実に私の番じゃ。あー恐ろしや。死ぬのは嫌じゃ。
ところが婆さんよ。寺というのは死んでから行っては手遅れなんじゃ。
寺は死んだ者が行く所ではなくて、生きてる者が行く所なんじゃ。
婆さんよ。死んだらどこに行きたいのかのぉ。
できることなら、極楽へ行きたいんじゃろが?。
なんまんだぶ を言うてもな、信心ということが何であるをよう心得んと、極楽往生は難しいっていわれてるぞ。
余所の寺のお札さんを貰ってきて、毎朝仏壇に参って、真宗では無用のお茶湯をして、ご先祖様と言うとってもな、そらちょっとばかり方向が違うとるぞ。
てな事を思った。
いや、実に、寺詣りは一家を代表して誰かが来るなんて、後生の一大事などもう全く念頭にないのだ。
生と死は他人事ではないのだ。あんた自身のことなんだ。誰も代わってはくれない。自分で引き受けていかねばならないことなんだよ。
寺詣りを息子に代わってやってもらっても、最後のことは息子は代わってはくれないのだよ。
生きている間に、生きているとはどういうことかと言うことを聞きに来るところが寺なんだよ。
と、口を酸っぱくして言っても、死ぬまで来んじゃろうな。
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