忠臣蔵と鶴屋南北


 知らぬが仏とはよく言ったもので、この歳になるまで歌舞伎という分野には全く関心がなかった。それでも知っていたのは「忠臣蔵」だけぐらいで、それも本物の歌舞伎は見たことがない。映画やテレビでの「忠臣蔵」だった。不況になると「忠臣蔵」を興行すると当たるという話は聞いていたので、日本人はいつも判官贔屓の心情があるのだなぁと思っていた。

 その忠臣蔵の中のヒーローの一人に不破数右衛門とういう浪人が登場し、討ち入りに参加するという事実があるが、この不破数右衛門については、宗玄寺と大層ゆかりが深く、代々の伝承があり、また、この地域に「義士奉賛会」が作られて毎年12月14日に子供義士行列などが営まれている。

不破数右衛門の家族
 数右衛門の家族(親族)については、はっきりと判明しているものと、全く不明なものとの両極にある。

岡野治太夫(-1713)
             





 佐倉新助と改名しているという書物はたくさんあるが、過去帳では岡野治太夫と明記してある。元赤穂藩士であるが、数右衛門の浪人前後に隠居(退職)し、一時、播州亀山に住んでいたが、実妹「熊」の婚家である古市の鍵屋(宗玄寺の弟筋・大問屋、酒造、大庄屋を勤め、苗字帯刀御免の家業)に身をよせ、その後、宗玄寺に寄寓して晩年を過ごした。鍵屋へ身を寄せたのは、1769年から1700年4月頃の間で、1700年4月以後はすぐ向かい側にあった宗玄寺屋敷に移ったものと推測できる。 本功院釈穏良 宗玄寺墓地に墓石あり。
実母 名前不詳(-1720)





 数右衛門の討ち入り後、その子大五郎は類罪を得て遠島処分になるところであったが、出家することによって罪を免ぜられる仕組みであった。大五郎は篠山の禅寺・大膳寺に入寺することになったが、祖母である治太夫の妻が一緒に寺に行き、1720年にその寺で亡くなっている。17年間大膳寺で過ごしたことになる。 本照院永春信女 宗玄寺墓地に墓石あり。
叔母 熊(-1700)
 岡野治太夫の妹で酒井三郎右衛門の妻。熊は俗称で本名は「おさよ」という。 釈尼妙修 宗玄寺墓地に墓石あり。
長男 大五郎(没年不詳)













 討ち入り事件当時は6歳。岡野の大膳寺にて出家して大雄と号し、23歳頃まで過ごしたと推測される。出家に当たっては岡野治太夫の縁戚に当たる篠山藩士の太田半兵衛という人物が介在したと思われ、祖母も同時に付き添って入寺していることから大膳寺が無住寺であったと考えられる。祖母が亡くなると同時に大五郎は大膳寺を離れ、三河の永昌寺へ移ったというが、その後の消息は全く不明である。熊田宗次郎著『日本書蹟 赤穂義士』(明治44年)
の中に「不破数右衛門の子孫」という項で、大五郎は還俗し、本人かもしくはその子が名古屋藩に仕え新番として100石の役に付いて、代々数右衛門を襲名していたが、文久年間、子供の教育で寺子屋の師匠と口論になり、師匠を斬殺したが、かえって親子共々返り討ちになって、一家が断絶したと記されている。討ち入りから160年ほどの年月が経過しておりながら、古市ではそうした事実や、あるいは問い合わせ等があったということは伝えられていないので、これは創作ではないかと考えられる。名古屋近辺に不破郡という地名があり、おそらく同姓同名の者の事件かも知れない。(2015年にその後のことが判明し「大五郎のその後のこと」に記載している。)
長女 つる(1699-1730)

 通称「おつな」という。討ち入り事件当時は4歳。宗玄寺から御影の照明寺へ移り長じて照明寺の住職と結婚した。照明寺とは鍵屋という酒造屋のつながりで関係が持たれていた。 法名 釈尼妙宣
孫娘 るい(1714-1773)
 つる15歳の時の娘で、宗玄寺に嫁いで来た。59歳で没。 釈尼誓隆 宗玄寺墓地に墓石あり。
数右衛門(1669-1703)




 幼名藤八といったと言われる。断絶していた不破家の名跡を継いで岡野家を離れた。当時の給料は個人に支払われるのではなく、家名に対して支払われることから、「お家大切」ということになっていた。馬回役・浜辺奉行として100石取りであったという。新刀の試し切りのために墓を暴いて死体を切ったり、塩田の作業員と口論の上斬殺したりと、一面困った人物であったと考えられる。上役との諍いもあり、お役御免(懲戒免職)となってしまった。
数右衛門の妻





 詳細は全く不明である。一説には村松喜平の娘「くに」で、1720没、栄室妙祐信女といわれ、過去帳にそのように記載されているものの、これは後ほど書き加えられた可能性がある。実際にどこに住んでいたのかなど、数右衛門の妻のことは何も伝承されていない。あくまで推測であるが、数右衛門が浪人して、長女「つる」が生まれた1699年に、子供は岡野治太夫夫婦に預け、離別もしくは別居して、そのまま生涯を終えたのではないかと考えられる。数右衛門は浪人と同時に江戸に下って浪々の生活を送っていたといわれる。

1669年不破数右衛門生まれる
1697年
長男 大五郎生まれる
この頃、数右衛門浪人か?
1699年
長女 つる生まれる
この頃、岡野治太夫夫婦と子供達は古市の熊方へ寄寓
1700年
数右衛門の叔母「熊」死去(4月)
この頃、岡野治太夫夫婦と子供達は宗玄寺へ寄寓
1701年松の廊下の刃傷事件起こる。数右衛門江戸に在住
1703年

数右衛門切腹(34歳)
大五郎出家(6歳)
つるは照明寺へ(4歳)
1713年岡野治太夫死去
1714年「るい」生まれる (つる15歳)
1720年
治太夫の妻死去
この頃、大五郎出奔 三河の永昌寺へ入る
1730年照明寺へ嫁した「つる」死去(31歳)
1773年宗玄寺に嫁した「るい」死去(59歳)

 ここまでが数右衛門の周辺の人物である。

 ところが最近、別の目的である本を読んでいて今まで考えもしなかったことがわかってきた。それは、歌舞伎『忠臣蔵』を表の見方とすると、裏の見方の作品があるということだった。ドラマや講談などで知っているあの『四谷怪談』の伊右衛門という人物は討ち入りをしなかった赤穂浪士であるというのだ。そしてもう一つ、『盟三五大切』<かみかけてさんごたいせつ>という作品である。どちらも鶴屋南北の作である。

 『盟三五大切』は不破数右衛門を取り巻く人間関係を描き出しており、主人公の源兵衛は不破数右衛門のことであるという。「深川五人殺し」という事件があって、金と色とが織りなす事件であったという。源兵衛は深川芸者の小万という女と親しい関係になっていたが、小万の夫である三五郎は、数右衛門の元の家来の子供であったという筋立てである。

 エンディングでは、小万を斬殺し、その首を前に、へべれけに酔って茶漬けを食べ、その茶を首にかけているところへ、討ち入り装束に身を固めた富森助右衛門が迎えに来て、源兵衛は不破数右衛門として討ち入りに出かけるという筋書きである。 

 江戸での浪人暮らしは数右衛門に限らず、他の赤穂浪士も同じように生活に苦しく、二日に一度の粥をすすったとか、あるいは、生活苦のために討ち入りの同盟から脱退していった者も多くある。すさんだ生活を送らざるを得なかったと思う。ある日突然リストラに遇い、あるいは会社が倒産してホームレスにならざるを得ない境遇と全く同じなのだろう。

 『四谷怪談』も『盟三五大切』も、鶴屋南北の創作といえば創作であるが、実際にあった事実を元に脚色したものとも言えよう。人生には二面性がある。真実を解きほぐしていけば、期待が失望に変わったり、釈迦の説法も屁一つになるかも知れない。

 私も『盟三五大切』をじっくり読んでみたいが、興味のある方はそれぞれお読みになられては如何なものかと・・・。


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