信じるということ


テツヤ! なんばしちょっかー!
 みなさんよくご存じの「武田鉄矢」の母のことをうたった歌の中の一節です。
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「テツヤ」のところを自分の名前に置き換えてみるとどうでしょうか。
「何遍言うてもわからんヤツやなー」
てなことになりませんか?。
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「弥陀の大悲」というのは、私はそんな風にとらえています。
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 「人間ちゅーもんは、なんぼ言うても懲りんと、命を大事にせんと生きとる。わしゃ、悲しい。」
と、弥陀は言うとると。
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 私達は、「信じる」という言葉を安易に使っているけれど、実は、「信じとる」のは、私が弥陀を信じとるのではなく、弥陀が私を信じとることなのです。
 それも性懲りもなく、いつもいつも裏切られ、
「もう放ったらかしてやろうか」
と思っても、
「いやいや、必ずわかってくれる」
と思い直して。
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私達は、安易に「信じとる」と言う。
「君を信じてる」なんて。
あるいは「会社を信じてる」なんて。
中には「お金を信じてる」人もあるでしょう。
でもね、その信じてるものに裏切られたことはありませんか?
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 「こんなはずではなかったに」なんて。
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 それは、信じる対象が違っていたのです。
私が信じているというのは、実は
「私にとって都合のよいもの」
を願っているにすぎないからです。
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 弥陀は私を信じることによって、何も弥陀自身が得になることは何もありません。
でも、「誓願」として、「悲願」として、私を信じ続けてくれています。
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 まるで、どら息子を心配して、「言うと怒られる」と遠慮しながら、はらはらしながら見守っている母親のように。


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