長楽寺隆寛律師作
念仏の行につきて自力・他力ということあり。これは極楽をねがいて弥陀の名号をとなうる人の中に、自力のこころにて念仏する人あり。まず自力のこころというは、身にもわろきことをばせじ、口にもわろきことをばいわじ、心にもひがごとをばおもわじと、加様につつしみて念仏するものは,この念仏のちからにて、よろずのつみをのぞきうしないて、極楽へかならずまいるぞと、おもいたる人をば、自力の行というなり。加様にわが身をつつしみととのえて、よからんとおもうはめでたけれども、まず世の人をみるに、いかにもいかにも、おもうさまにつつしみえんことは、きわめてありがたきことなり。そのうえに、弥陀の本願をつやつやとしらざるとがのあるなり。されば、いみじくしえて往生する人も、まさしき本願の極楽にはまいらず、わずかにそのほとりへまいりて、そのところにて本願にそむきたるつみをつぐのいてのちに、まさしき極楽には生ずるなり。これを自力の念仏とはもうすなり。他力の念仏とは、わが身のおろかにわろきにつけても、かかる身にてたやすくこの娑婆世界をばいかがはなるべき。つみは日々にそえてかさなり、妄念はつねにおこりてとどまらず。かかるにつけては、ひとえに弥陀のちかいをたのみあおぎて念仏おこたらざれば、阿弥陀仏かたじけなく遍照の光明をはなちて、この身をてらしまもらせたまえば、観音・勢至等の無量の聖衆ひき具して、行住坐臥、もしはひる、もしはよる、一切のとき、ところをきらわず、行者を護念して、目しばらくもすてたまわず、まさしくいのちつき、いきたえんときには、よろずのつみをばみなうちけして、めでたきものにつくりなして、極楽へいてかえらせおわしますなり。されば、つみのきゆることも南無阿弥陀仏の願力なり、めでたきくらいをうることも南無阿弥陀仏の弘誓のちからなり。ながくとおく三界をいでんことも阿弥陀仏の本願のちからなり、極楽へまいりて、のりをききさとりをひらき、やがて仏にならんずることも、阿弥陀仏の御ちからなりければ、ひとあゆみもわがちからにて極楽へまいることなしとおもいて、余行をまじえずして、一向に念仏するを他力の行とはもうすなり。たとえば、腰おれ足なえて、わがちからにてたちあがるべき方もなし、ましてはるかならんところへゆく事は、かけてもおもいよらぬことなれども、たのみたる人のいとおしとおもいて、さりぬべき人あまた具して、力者に輿をかかせて、むかえにきたりて、やわらかにかきのせてかえらんずる十里二十里の道もやすく、野をも山をもほどなくすぐる様に、われらが極楽へまいらんとおもいたちたるは、つみふかく煩悩もあつければ、腰おれ足なえたる人々にもすぐれたり。ただいまにても死するものならば、あしたゆうべにつくりたるつみのおもければ、こうべをさかさまにして、三悪道にこそはおちいらんずるものにてあれども、ひとすじに阿弥陀仏のちかいをあおぎて、念仏してうたがうこころだにもなければ、かならずかならずただいまひきいらんずる時、阿弥陀仏目の前にあらわれて、つみというつみをば、すこしものこる事なく功徳と転じかえなして、無漏無生の報仏報土へいてかえらせおわしますということを、釈迦如来ねんごろにすすめおわしましたる事をふかくたのみて、二心なく念仏するをば他力の行者ともうすなり。かかるひとは、十人は十人ながら、百人は百人ながら、往生することにてそうろうなり。かかる人をやがて一向専修の念仏者とはもうすなり。おなじく念仏をしながら、ひとえに自力をたのみたるは、ゆゆしきひがごとにてそうろうなり。あなかしこあなかしこ。
寛元四歳丙午三月十五日書之
愚禿釈親鸞七十四歳
現代語意訳
念仏の行につきて自力・他力ということあり。これは極楽をねがいて弥陀の名号をとなうる人の中に、自力のこころにて念仏する人あり。まず自力のこころというは、身にもわろきことをばせじ、口にもわろきことをばいわじ、心にもひがごとをばおもわじと、加様につつしみて念仏するものは,この念仏のちからにて、よろずのつみをのぞきうしないて、極楽へかならずまいるぞと、おもいたる人をば、自力の行というなり。加様にわが身をつつしみととのえて、よからんとおもうはめでたけれども、まず世の人をみるに、いかにもいかにも、おもうさまにつつしみえんことは、きわめてありがたきことなり。そのうえに、弥陀の本願をつやつやとしらざるとがのあるなり。されば、いみじくしえて往生する人も、まさしき本願の極楽にはまいらず、わずかにそのほとりへまいりて、そのところにて本願にそむきたるつみをつぐのいてのちに、まさしき極楽には生ずるなり。これを自力の念仏とはもうすなり。他力の念仏とは、わが身のおろかにわろきにつけても、かかる身にてたやすくこの娑婆世界をばいかがはなるべき。つみは日々にそえてかさなり、妄念はつねにおこりてとどまらず。かかるにつけては、ひとえに弥陀のちかいをたのみあおぎて念仏おこたらざれば、阿弥陀仏かたじけなく遍照の光明をはなちて、この身をてらしまもらせたまえば、観音・勢至等の無量の聖衆ひき具して、行住坐臥、もしはひる、もしはよる、一切のとき、ところをきらわず、行者を護念して、目しばらくもすてたまわず、まさしくいのちつき、いきたえんときには、よろずのつみをばみなうちけして、めでたきものにつくりなして、極楽へいてかえらせおわしますなり。されば、つみのきゆることも南無阿弥陀仏の願力なり、めでたきくらいをうることも南無阿弥陀仏の弘誓のちからなり。ながくとおく三界をいでんことも阿弥陀仏の本願のちからなり、極楽へまいりて、のりをききさとりをひらき、やがて仏にならんずることも、阿弥陀仏の御ちからなりければ、ひとあゆみもわがちからにて極楽へまいることなしとおもいて、余行をまじえずして、一向に念仏するを他力の行とはもうすなり。たとえば、腰おれ足なえて、わがちからにてたちあがるべき方もなし、ましてはるかならんところへゆく事は、かけてもおもいよらぬことなれども、たのみたる人のいとおしとおもいて、さりぬべき人あまた具して、力者に輿をかかせて、むかえにきたりて、やわらかにかきのせてかえらんずる十里二十里の道もやすく、野をも山をもほどなくすぐる様に、われらが極楽へまいらんとおもいたちたるは、つみふかく煩悩もあつければ、腰おれ足なえたる人々にもすぐれたり。ただいまにても死するものならば、あしたゆうべにつくりたるつみのおもければ、こうべをさかさまにして、三悪道にこそはおちいらんずるものにてあれども、ひとすじに阿弥陀仏のちかいをあおぎて、念仏してうたがうこころだにもなければ、かならずかならずただいまひきいらんずる時、阿弥陀仏目の前にあらわれて、つみというつみをば、すこしものこる事なく功徳と転じかえなして、無漏無生の報仏報土へいてかえらせおわしますということを、釈迦如来ねんごろにすすめおわしましたる事をふかくたのみて、二心なく念仏するをば他力の行者ともうすなり。かかるひとは、十人は十人ながら、百人は百人ながら、往生することにてそうろうなり。かかる人をやがて一向専修の念仏者とはもうすなり。おなじく念仏をしながら、ひとえに自力をたのみたるは、ゆゆしきひがごとにてそうろうなり。あなかしこあなかしこ。
寛元四歳丙午三月十五日書之
愚禿釈親鸞七十四歳
旧ホームページからの移転