自分が見えない


 自分の姿が見えていると、実は随分滑稽な事をしているものです。台風16号・18号では各地に大きな被害をもたらしました。被害にあわれた方には心よりお見舞い申し上げる次第です。

 滑稽なというのは実はその台風のニュース映像を見ていてのことなのです。

 こんな事を書くと、随分と顰蹙をかうかも知れませんが、人間の行動心理学の立場からの観察であることをお断りしておきます。

 横殴りの雨と強風の中、必死に傘をさしている人々の姿なのです。傘はビュービューと吹き付ける風の中で、やがてマッタケのようにめくれ上がり、骨が折れ、最後には手からもぎ取られて飛んでいってしまうのです。

 それはたった一人の方の状況ではなく、殆どの人がそういう状況になっているのです。

 ちょっと冷静に考えれば、この強風の中では傘は何の役にも立たない。雨を除けることはまず不可能。傘は必ず痛む率が高い。いやそれどころか、その傘で自分自身も怪我をするかも知れないし、飛んでいってしまう傘で他人を傷つけるかも知れない、という状況なのです。

 しかし、私たちは、どのような状況の雨であろうとも、傘を持っていれば「傘をさす」という事がインプットされてしまっていて、他の適切な選択が出来ないのです。

 テレビの中でたった一人の青年が、「傘は何の役にも立ちません。ささない方が歩き易いです」と述懐していました。彼の見つけた選択は正解なのです。傘を必死に両手で持っているよりも、薄い携帯ビニールカッパを持っていて、それを被れば、両手も自由に使えるし、何かにしがみつくこともできるのですが……。

 台風の風の中、心配で外に出られた方が私の近くにもいました。「風が吹いている時は危険だから外に出ないよう」と繰り返し放送されていたにも拘わらず……。

 自分は大丈夫だ という心理が働いているのだそうです。

 しかし、結果は多くの場合死傷事故につながっているのですね。


 インプットされてしまうということは実に恐ろしいことですねぇ。つまりマインドコントロールされている事なのです。

 仏教は先祖を供養するための道具だとインプットされてしまっている人に、いや実は生きている人のための教えなのです と、口を酸っぱくしても聞き入れてもらえない場合が殆どです。

 台風でお墓の石がずれてしまった。自分で直したが、若い娘がお坊さんに拝んでもらえと言った。若いのに感心な娘ですよねぇ。

 と言われて、私は返す言葉もなく唖然としたのです。何とならば、坊主にそんな神通力はないし、ましてそんなお経はないのです。仏教をまるで卜占祈祷の道具としてしか見ていないその若い娘さんこそ、間違った情報をインプットされてしまっていることに「お気の毒様さま」としか言いようがないのです。

 信じる者は救われる とは言いますが、信じる物が違っていては、どだい方向が違うのですから、ゴールは迷信と不実のごった煮が待ちかまえているかも知れません。

 自分のしている事は、合理的に根拠のあることなのかどうかということを、ついつい忘れてしまう場面に遭遇します。

 人は自分の姿が見えないのです。他人の姿は見えるのです。

 引っ越しをしましたが、荷物を忘れないようにと思っていたら、女房を連れて行くのを忘れてしまいました。

 孔子という人が言いました。
 女房を忘れるぐらいならまだましな方だ。世の中には自分を忘れている人が多い。
と。

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