生ききるために


 荒野に巾15㎝ほどの道がある。一方からは猛火が紅蓮のように襲いかかっている。もう一方からは、波が怒濤の如く襲いかかってる。

 一人の人間が、その細くて危険な道を渡って行こうとするのだが、両岸に押し寄せる炎と水を見ると、渡って行く勇気が湧いて来ない。後を振り向けば猛獣が牙をむき出して、虎視眈々と今にも襲いかかろうとしている。
 行くも死、戻るも死。

 その時、道の向こうから招く声がする。
 渡って来い! 必ず抱きとめてあげるから!!

 こちらの岸には励ます声がする。
 行け! 必ず渡りきれるから行け!!

 これは、仏教経典の中に出てくる『二河白道』のシーンです。
 来い! と招くのは阿弥陀如来の救いの力。行け! と励ますのは、真理の道を説くお釈迦様の教え。

 人生を送っている中には、何度かは決断をせざるを得ないときに遭遇します。あなたが決断をしなければならないときに、何を基準に判断するのでしょうか?
 世間体なのでしょうか?
 慣習に従うのでしょうか?
 みんながそうするからでしょうか?

それとも、いつも決断できずに流れに身を任せ、烏合の衆となって、みんなと一緒に流れ行く枯れ落ち葉のように過ごすのでしょうか?

 決断の時、道は必ずしも1本ではなく、二者択一であったり、あるいは四択であったりします。
 目先のこと、今日のことだけ解決すればそれで良いのですか?
 明日もまた、同じことで繰り返しをしなければならないとしてたら、それは決断をしたことにはなりませんね。

 我さえ良ければ・・・。役を逃れられるのであれば・・・。そんな度量の狭い生きざまをしているとしたら、なんと情けない、哀れな自分が見えてきませんか?

 人間の生は一度だけ。二度とやり直すことも出来ないし、まして生まれ変われるものでもありません。たった一度の人生なのです。それを、後ろ向きに歩んでどうするのですか?
 共に支え合って、助け合って、労り合って生きてこそ「人間を生きる」と言うことではないでしょうか?

 私さえ良ければという生き方は、「人間を生きる道」ではないのです。貪り〈むさぼり〉合い、おとしめ合い、さげすみ合う生きざまが「人間」の生き方なのでしょうか?

 人は正しいものを信ぜす、自分の信じたいものを信じるのです。でも本当にそれで良いのでしょうか?
 あなたは前に向かって生きているのですか?
それとも
 後ずさりしながら生きているのですか?

 まだ決して遅くはありません。今こそ振り返って見つめるべき時です。


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