阿弥陀経に学ぶ 第66回(最終回)

  ただ聞くよりほかなき教え
   <同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>


仏説此経已、舎利弗、及諸比丘 一切世間 天人阿修羅等、聞仏所説 歓喜信受、作礼而去。
仏説阿弥陀経


 仏、この経を説きたまうことを已りて、舎利弗およびもろもろの比丘、一切世間の天・人・阿修羅等、仏の所説を聞きたまえて、歓喜し、信受して、礼を作して去りにき。

 お釈迦さまは、『阿弥陀経』のご説法を説き終わられました。舎利弗尊者をはじめ、もろもろの比丘、天、人、阿修羅などは、みなお釈迦さまのご説法を聞いて歓喜し、礼拝をして座を去って、それぞれ生活の場に帰って行かれたとあります。

 ここのところを流通分と申します。どのお経でも、序分、正宗分、流通分から成っております。流通ということは、法水が遠く末の世まで流れそそいで、いつまでも伝わることであります。ですから流通分には、お釈迦さまが、この法を遠く末の世に伝えよと、法を授けておられます。『無量寿経』には、「応当に信順して法のごとく修行すべし」と、弥勒菩薩に授けておいでになります。

 けれども、この『阿弥陀経』の流通分には、そういうお言葉がありません。ありませんが、他のお経と異なって、このお経の流通分には、「歓喜し、信受して」とあります。歓喜し、信受して礼拝して去られることが、流通される相であります。

 もうひとつは、先回も申しましたように、このお経は、お釈迦さまのご一代のご説法の、また「浄土三部経」の結びになる経であります。お釈迦さまのご一代のご説法は、帰するところ念仏を信ずるほかにないことを説かれるのが『阿弥陀経』であります。ですから、このお経の全体が流通分であると言われております。

 お釈迦さまが、舎利弗の名を三十六度呼んで、「極楽浄土を願え」とか、「この法を信ぜよ」と、ご遺言のごとくお説きになっております。このひとつひとつの舎利弗への呼びかけが、法を授けられる流通のお言葉になっているのです。

 お釈迦さまのご説法を聞いて、「歓喜し、信受する」ということは、『無量寿経』の「本願の名号を聞いて、信心歓喜する」ということであります。

 今は信受とあります。本願のまことを我が身に受け取ることです。人間の分別でわかる、わからないということてはありません。本願の思し召しが身にひびいて、身をもって受けて立つことであります。身をもって受けて立つ人に、自然に与えられるまことの喜びが歓喜であります。

 親鸞聖人は、『「歓」は、みをよろこぱしむるなり。「喜」は、こころによろこばしむるなり』と言われました。「み」には「を」とあります。身全体が喜ぶと申しましょうか。どういうことに出会っても、それを受け取って身軽に処することができるのが身の喜びであります。

 「こころ」には、「に」とあります。心にかすかに、「ありがたい」「かたじけない」とこぼれてくる喜びです。善導大師は、「悲喜交流」と言われました。人生の悲しみをとおして、実感される喜びであります。悲しみのない喜ぴは浮いた喜びですし、喜びのない悲しみは沈んだ愚痴であります。そのなかに、悲と喜が交わり流れるのが如来から賜る信心の喜びであります。

 「礼を作して去る」とあります。本願を信受した相は礼拝であります。「去る」はまた「ゆく」という意味があります。ご説法が終わると、歓喜し、信受し、礼拝をしてその座を去り、生活の中に行き、生活を聞法の場とし、礼拝を生活態度として、正法流通の仏行を背負われるのであります。

 経の終わりに「仏説阿弥陀経」と、経名が出ております。これはご説法の終わりを示すのでしょうが、私どもはこの経名にふれて、改めて自分が問われるのであります。私どもはこの『阿弥陀経』のご説法を、どのようにいただいたか。歓喜し、信受して礼を作して去ることができるかどうか。五濁悪世の中に身をおいて、念仏の人として生活できるかどうかと問われるなら、心から聞いていない自分が知らされるばかりです。ですから、終わりの経名を聞いて始めにかえり、思いを新たにして聞法をしなければなりません。南無阿弥陀仏は、終わりが始めとして命のあるあいだ聞くことが、我が身の信が深まることであると共に、仏の力によって正法流通の願いに生きることになるのであります。


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