ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
舎利弗、当知我於 五濁悪世、行此難事、得阿耨多羅三藐三菩提、為一切世間、説此難信之法、是為甚難。
舎利弗、当に知るべし。我、五濁悪世にして、この難事を行じて、阿耨多羅三藐三菩提を得て、一切世間のために、この難信の法を説く。これをはなはだ難しとす。
諸仏が私を讃歎してくれるように、私は五濁悪世において自ら仏陀となり、一切世間の苦悩する人々のため、難信の法を説くという難事を行ずるのであると、お説きになりました。
なぜ難事を行じてくださるかというと、先回も述べたように、五濁の世に生きる邪見驕慢の人々にとっては、本願念仏は難信の法です。しかしまた、五濁悪世であるから、本願念仏の法を信じなかったら、末とおる救いを得ることはできないからであります。
親鸞聖人は、『正像末和讃』に「五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり」と和讃されました。五濁の世にあって、人間では包むことができないような問題をもって苦悩している人々も、如来の本願を信ずれば、おしはかることができなければ、説くこともできない、また思議することもできないような無上大利の功徳が与えられるのであります。
無上大利の功徳というのは、「しぶ柿の しぶそのままの 甘さかな」という句がありますが、しぶそのままが甘さになるように、どんな悪業煩悩も本願のおはたらきによって、お浄土の徳に変じて、いつでも新しい道が開けるのであります。
世間には種々の宗教がありますが、人間の求めるものは小さい利益です。仏教でも自力の修行者は、煩悩を断じて悟りを求めますが、かえって煩悩に伏されて、願いを実現することができません。また病気が治るとか、商売が繁盛することなどによって、苦悩を除くことを教える宗教がありますが、たとえ一つのことが解決したとしても、また次の問題ができて、一つ一つの解決は結局解決になりません。
それに対して念仏の道は、煩悩の生活の中にありながらも本願を信ずるなら、無上大利の功徳が身にあらわれ、悪業煩悩のままが浄土の徳に転じて、苦しむことが、またそのおかげであったと見直すことができるのであります。小さい苦しみには小さいなりに、大きい苦しみには大きいなりに、おかげさまをかみしめることかできるなら、どういうことに出合っても、その一つ一つを生きたもの、光あるものにすることができます。その実感は、その人自身が身をもってうなずくことしかありませんし、五濁悪世に生きる私どもは、こういう利益を得なかったら、真の人間の救いは成り立たないと申してよいでしょう。
ですからお釈迦さまは、この五濁悪世にお出ましになって、難信の法を説くという難事を行じてくださったのでありますし、お釈迦さまはこのことを説くために、護出世くださったのであります。
私どもの先輩は、『阿弥陀経』は、お釈迦さまのご一代のご説法であり、「浄土三部経」の結びの経であると教えられました。『華厳経』や『涅槃経』などは、阿弥陀仏の本願を信ぜずにおれない身に育ててくださる、ご方便のお経であります。
「浄土三部経」におきましても、最量寿経』は本願のお法こそ、一人ももらさず平等に救われる真実の法であることが説かれ、『観無量寿経』は、業苦に悩む愚痴な韋提希夫人が念仏に救われることが説かれ、この世にはじめて本願念仏の歴史が開かれました。
『阿弥陀経』は晩年に祇園精舎において、常随のお弟子方といっしょにおられたとき、念仏を信じない人には念仏の真実をおすすめになり、信じている人には信ずる心が自力に止まっていないかをよく吟味して、正しく信じよとおすすめになりました。問う人がいないにもかかわらず、お釈迦さまの方から舎利弗の名を呼んで、ご遺言のように説き残してくださったお法であります。
かつて曽我量深先生にある人が、『阿弥陀経』のご講義をお願いしたとき、「私はまだ『阿弥陀経』が読めません」とおおせになったと聞いております。信じるほど私は読んだ、私は信じたと言えないほどの甚深広大の法を説くために、お釈迦さまはご出世くださったのであります。
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