ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
先回、五濁悪世について劫濁と見濁とを申しました。次に煩悩濁は『正像末和讃』に「無明、煩悩しげくして 塵数のごとく遍満す 愛憎違順することは 高峯岳山にことならず」とあります。煩悩は塵の数のようにはびこって、愛と憎しみの焔で身心が焼かれております。
衆生濁は「劫濁のときうつるには 有情ようやく身小なり 五濁悪邪まさるゆえ 毒蛇悪龍のごとくなり」とあります。時代が濁るにつれて人物が小さくなり、個人主義というか、自分の都合さえよければよいという心で、毒蛇悪龍のように争っております。
命濁は、「命濁中夭刹那にて 依正二報滅亡し 背出帰邪まきるゆえ 横にあたをぞおこしける」とあります。いのちの尊さがわからなくなって、大切ないのちを無意味にすりへらし、道ならぬことにいがみあっております。
こうしてみますと、今日はさながら五濁悪世であります。ですから直接、欲望につながる宗教には人が多く集まりますが、すべての人を平等に救ってくださるような如来の本願真実には、容易に心が向きませんし、向かっても人間では信じ難い法です。
難という字は、人間の自力の心はどれほど努力を傾けても、真実に届かないことをあらわします。ただすでに、そういう私どものありさまを見とおして、仏さまの方から念仏を与えて呼びかけてくださるおはたらきによって、濁悪邪見の頭の上げようのない自分自身を知る人に仰がれる法であります。
親鸞聖人の『正信偈』に、「弥陀仏の本願念仏は、邪見驕慢の悪衆生、信楽受持すること、はなはだもって難し。難の中の難、これに過ぎたるはなし」とあります。邪見驕慢な悪衆生が、弥陀仏の本願念仏を真珠することは、難の中の難と教えられました。邪見驕慢の悪衆生といいましても、人間は自分で自分が見えませんし、見えても自分は悪い者だと反省する程度であります。しかし、親鸞聖人のこの言葉は、人間の反省の言葉ではありままん。念仏の信心に照らされて見えくる自分自身の相であります。その相は、仏さまに教えてもらわないと自覚できないようになっております。
私ども、ご縁があって念仏の教えを聞き、仏さまのおはたらきによってたまたま信心が得られますなら、信心の智慧に照らされて、はじめて無始以来の邪見驕慢の衆生の自分が見えてきますし、その邪見な心で救いを求めようとしている高山がりした自分を痛まずにおれません。その痛む心は如来のお心ですから、おのずからすべての人を救いたいという本願真実の思し召しが聞こえて頭が下がるばかりです。下がった頭にいただかれるのが念仏の信心であります。ですから難信の法といわれるのであります。.
聞けば聞くほど邪見な自分が知らされ、護念したもう本願の大悲が仰がれて、いかなる善も欲せず、悪をも恐れる必要のない心に導かれながら一日一日を歩かせてもらうのであります。
信じ難い法ですが、末とおる救いはこの法を信ずることしかありません。幸い因縁によって得がたい信心を得ることができた喜びは、ひとしおであります。だから、ありがたいのです。私がいただいた信心ですが、あがめずにはおられないほど、かたじけない信心であります。私どもも、あらためて五濁悪世にお出ましくださって、難信の法を説くという難事をなしてくださったお釈迦さまのご苦と七、ご恩徳を謝せずにおれません。
冬眠のゆめはさめしか鳴く蛙 よろこびをわれにつぐべし
-藤原鉄乗-
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