阿弥陀経に学ぶ 第63回

  ただ聞くよりほかなき教え
   <同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>


舎利弗、如我今者 称讃諸仏 不可思議功徳、彼諸仏等 亦称説我 不可都議功徳、而作是。釈迦牟尼仏 能為甚難 希有之事、能於娑婆国土 五濁悪世、劫濁 見濁 煩悩濁 衆生濁 命濁中、得阿耨多羅三藐三菩提、為諸衆生、説是一切世間 難信之法。

 舎利弗、我がいま諸仏の不可思議の功徳を称讃するごとく、かの諸仏等も、また、我が不可思譲の功徳を称説して、この言を作さく、「釈迦牟尼仏、能く甚難希有の事を為して、能く裟婆国土の五濁悪世.劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁の中にして、阿耨多羅三藐三菩提を得て、もろもろの衆生のために、この一切世間に信じ難き法を説きたまう」と

 訳しますと、「舎利弗よ、私が今、諸仏の不可思議功徳をほめたたえるように、かの諸仏も私の不可思議功徳をほめたたえてくださっている。釈迦牟尼仏は、よくもはなはだ困難な極めてまれなことをしてくださったことである。よくも裟婆世の五濁悪世の劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁の中において、みずから仏のさとりを得て、もろもろの人々のために、世間において信じ難い法を説いてくださったことである」と説かれました。

 お釈迦さまと六方の諸仏方が、信をおすすめくださいましたが、ここは諸仏とお釈迦さまがともにほめ合われることをのべて、結びとされる一段です。ことに諸仏はお釈迦さまを釈迦牟尼仏と称して、お釈迦さまのご出世の意義を讃えられることを、力を入れてのべてあります。はなはだ困難な、世にもまれなことをしてくださったとあります。ということは、五濁悪世に念仏の真実を説くことは至難のことであのま、容易に信じ得ない難信の法だからです。

 よく、自力はむずかしいが他力はやさしいという人がありますが、自力でできることならむずかしいことでありません。本願他力の真実の法は悪世に生きる疑い深い人にとっては、容易に信じることができない難信の法です。

 五濁悪世というは、五種の世の濁りです。この五濁については幸い親鸞聖人が『正像末和讃』に和讃しておられます。それによりますと、第一の劫濁は時代の濁りです。「数万歳の有情も、果報ようやくおとろえて、二万歳にいたりては 五濁悪世の名をえたり」とあります。数万歳の人も果報がおとろえると、しだいに精神寿命が短くなって、二万歳になると五濁悪世になります。果報がおとろえるということは、自我がしだいに発達して生活が道理に背くようになります。すると生かされて生きることのありがたさ、もったいなさを喜ぶ心がくもって、生活がくずれてまいります。

 かつては物質的には貧しかったかもしれませんが、果報が豊かでありましたので、生きることの喜びを忘れずに生活をしていましした。今日、物質文明は発達しましたが、果報がおとろえて、「楽しむことは知っているが、喜びを知らない」とまでいわれているほど、貧しい心で生活をしております。果報があとろえていますから、念仏を信じることは容易でありません。

 第二の見濁は思想の乱れです。『正像末和讃』には「有情邪見熾盛にて 叢林棘刺のごとくなり 念仏の信者を疑謗して、破壊瞋毒さかりなり」とあります。邪見は正見の反対で、因果を信ぜず、道理を信じようとしない邪な考えです。

 『涅槃経』には、「一切の悪行は邪見なり」とあります。邪見が一切悪行の因です。自分の考えを正しいと固執して、主張することは他をおし倒してでも通そうとします。しだいに邪見が熾んになって、棘や刺のある叢か林のように入り乱れております。念仏の信者を疑い謗って、念仏はお呪いだとか迷信だとかいって惑わそうとするありさまです。ある人が念仏を聞いてもらいたいのだが、「そんをことをしなくても金はもうかる。子どもは育つ。この忙しいときに、なぜ聞かねばならないのか」と、耳を傾けてくれないと悲しい思いで述懐されました。五濁悪世に念仏を信じることは、至難であることを改めて思い知らされます。


「急ぎ念仏して」というが、最も急がねばならないことを最もあとまわしにする。そして、ついに間に合わずに死ぬようなことになる。
                            -安田理深-


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