阿弥陀経に学ぶ 第62回

  ただ聞くよりほかなき教え
   <同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>


舎利弗、若有人、已発願、今発願、当発願、欲生阿弥陀仏国者、是諸人等、皆得不退転 於阿耨多羅三藐三菩提、於彼国土、若已生、若今生、若当生。是故舎利弗、諸善男子善女人、若有信者、応当発願 生彼国土。

 舎利弗、もし人ありて、已に願を発し・今願を発し・当に願を発して、阿弥陀仏国に生まれんと欲わん者は、このもろもろの人等、みな阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得て、かの国土において、もしは已に生じ・もしは今生じ・もしは当に生ぜん。このゆえに舎利弗、もろもろの善男子・善女人、もし信あらん者は、応当に願を発してかの国土に生ずべし。

 「舎利弗郎よ、もし人あって已に願いを発し、今願を発し、当に願いを発して、阿弥陀仏の国に生まれたいと欲てう者は、みな仏果に至る道を退転することはない。だから彼の国に已に生まれ、今生まれ、当に生まれんとするのである。この故に舎利弗弗よ、善男善女があって、私の語や諸仏が説かれる教えを信ずる者は、願を発して彼の阿弥陀仏の国に生まれてほしい」と、お説きになっております。

 先回、念仏の信心は浄土に生まれたいと願う心であると申しましたが、今回は、正しく願いを発して浄土に生まれよとお勧めくださるのであります。前にも「舎利弗よ。この説法を聞く人は、願いを発して彼の国に生まれたいと、願いを発してほしい」とありました。
 お釈迦さまが極楽国土と、仏・菩薩の徳を説かれるのも、極楽浄土を願う人になってほしいという、ご親切からであります。ということは 極楽浄土に生まれたいと願いを発するほかに、私どもが苦しみや悩みから救われる道はないからであります。

 先回は、十方の人々に信をお勧めになりましたが、今は過去、現在、未来の三世の人々にお勧めになっております。「已に発願し、已に生まれる人」というのは、お釈迦さまがのお出ましになる過去の人であります。確かにお釈迦さまがこの世にお出ましになって、本願念仏の道をお説きくださったのであります。

 しかし、お釈迦さまは自分で考えて、お説きになったのでありません。お釈迦さまの前に、すでに念仏の教えはありました。お釈迦さまを生み出す母胎というか、遠く深い伝統があったのであります。仏に遇って願をいを発し、浄土に往生した無量無数の人々がありました。お釈迦さまはその本願の伝統から生まれ、説かざるを得ずしてお説きくださったのであります。

 「今発願して、今生まれる人」は、お釈迦さまの会座に聴聞される人々です。「当に発願して、当に生まれんとする人」は、お釈迦さまがご入滅になった後の、未来の人々であります。如来の本願は、このように過去、現在、未来と絶えることなく伝統されるのであります。伝統を生み出す本は如来の本願であります。如来の本願の御促しによって、願いを発して浄土に生まれる人々によって、本願の歴史は背負われ伝統されるのであります。

 いかなる人も如来に願われております。「我が国に生まれんと欲え。若し生まれなかったら私は仏にならぬ」と、いのちをひとつにして願われております。その願いに呼びさまされて、願いを発して浄土に生まれる人にされるのです。今生において縁のない人は、次の生においてと言うように、已に発願して已に生まれ、今発願して今生まれ、当に発願して当に生まれるというように、かぎりなく伝統されるのであります。

 科学文明が発達して、お寺にお参りする人も少なくなるが念仏の道はどうなるのか、と言う人がありますが、教団の様相はどのように変わるかわかりません。しかし、本願の虚しからざる証拠に、ご縁のある人が摂め取られて、念仏の人は連続無窮にして絶えることがないのであります。そうであればこそ、私のような者も願いを発すご縁に恵まれることができるのであります。

 仏法に縁のなかった人が、ふとしたことで法座に身を置かれ、お法を聞いて、「今日まで何をしておりましたやら」と実感されることが機縁で、熱心に聞法する人になられました。本願の仏法の不思議が知らされます。だからお釈迦さまは、願いを発して彼の国に生まれて欲しいとお勧めくださるのであります。


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