ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
親鸞聖人が七高僧の第六祖として仰がれた源信僧都の『仏説阿弥陀経』のご解釈に、み名を聞く人には三つの益が与えられるとあります。念される益と、第二の不退転を得る益は、現実生活に得る益であります。諸仏に護念されるから、不退転を得ることができるのであります。第三の大菩提という仏果を得る益は、未来の益とあります。
諸仏護念については、聖人が晩年にご製作になった『現世利益和讃』に、懇切に数えられております。このご和讃は、天神、地祇などに護念される益を十二首、あと三首は諸仏に護念される益であります。と申しましても一般の現世利益のように、個人の幸せを護念されるのでありません。念仏の信心が曇らないように護ってくださるのであります。なぜかというと念仏の信心があれば、どういう問題も解決することができるからであります。
天神、地祇などに護念される益を十二首までも和讃しておいでになることから、聖人はこのことに、いかに重要な意味を感じておいでになったかが、うかがわれます。信心を得る人は、諸神、諸仏に護られているのでけ。ですからご祈とうをしたり、日を視てもらったり、怒りや崇りにおびえる必要がないほど明るい心安らかな生活が与えられるのであります。
聖人は善導大師のお書きになった『般舟三昧経』のお言葉によって、「仏に帰依した人は、天を拝し、鬼神を祀り、吉良日を視る必要がない」とお示しになっております。除災招福のために、天神や地祇や、あるいは死者の霊をご祈とうの対象にしたり、祠る必要がないのです。また、どういうときでも吉良日を視る必要がないのであります。信心がないと心が暗いので、怒りや崇りにおびえなければなけません。天神などがおびやかすのでありません。暗い心で自分でおびえるのです。
冥顕思想と言いまして、これらの神々は目には見えないが、冥界という暗い所におられ、そこから私どもは見られているのです。私どもが禍いに会うのも福を得るのも、冥界によって支配されているという考え方です。ですからご祈とうをし、お祠りをし、日や方角を選ばないと崇られたり、怒りをかうということになります。昔のことではありません。
今日の物質文明は極度に発達しましたが、精神は暗いので、私どもは畏とおびえの心をもって生活しております。もし、私どもの心の中に、信心の光がなかったら、おびえづめではありませんか。私どもの先祖のご法事も鬼神を祠るような心で勤めていないでしょうか。よく振り返ってみなければならないことであります。
ご縁があって念仏の信心を得るなら、諸神、諸仏に護られてあることに気づくでありましょう。除災招福という個人の幸せを求める暗い心でおびえるのですが、信心の智慧は自分が利益されることが、そのまま他を利益することになるのです。私が本当に幸せになることが、そのまま他人を幸せにすることというのが浄土の徳であります。
吉凶禍福など、ささやかなことに惑い、ならぬことに苦しみ悩んで退転しづめの私ですが、信心に照らされると、吉も凶も禍も福も共に受け入れて、どういう中にも落ち着いて身を処すると共に、そのことがそのまま他を利益することができるのであります。そういう浄土の徳を生活する人は、諸神、諸仏に護られて、退転せずに大菩提という仏の世界を目標として、前向きに歩ませてもらうのであります。
聞法する人は、どんなものにも妨げられない道を行くことができる。だから常に自由であり平和である。
旧ホームページからの移転