ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
先回、「諸仏が証明し護念してくださる名号を聞いて信ずるなら、諸仏の念力に護られて、仏のさとりの智慧を開き、一生退転することなく、未来仏になる」という言葉について、『仏説無量寿経』の言葉に照らして、そのおぼしめしをうかがいましたが、真宗の教えを聞く私どもには大切なことですから、もう少し述べたいと思います。
『無量寿経』には、「問題を持っている人は、諸仏が証明し護念してくださる名号を聞いて、信心歓喜する。その信ずる心は阿弥陀仏からいただかれるまことの心である。だから彼の国に生まれようと願うなら、すなわち往生を得て不退転に住する」とあります。問題のある人は考えても思っても道は開けません。ただ名号を聞いて信心歓喜する人になることであります。
信心は先回申しましたように、如来のまことの心が信心であります。私が信ずるというような、人間の手作りの信心ではありません。私にいただかれるままが、如来のまことの心であります。
その信心を具体的に、「彼の国に生まれようと願う心」であるとお説きになっております。信心は、彼の国、つまりこの世を超えてこの世になり下がり、私どもの生の依る処、死の帰する処となってくださっている、真実の国である浄土を願う心であります。法を聞く人は時が熟して、浄土を願う心が与えられるのであります。どれだけあてがはずれても虚妄の夢を夢と知らずに、夢を追っている私どもに、虚妄の頼みにならないことを知らせて、浄土を願う心を人生の依り処とし方向として歩むことのできる人間に、育ててくださるのであります。
木村無相さんは、「やっと出ました一本道 ナムアミダブツの一本道 西の空がかるい」と詠んでおられる。浄土の願いにさめた一念の喜びでありましょう。
浄土を願う人には、おのずから浄土の徳が与えられ、浄土に等しい生活をさせてもらうことができるのであります。親鸞聖人は晩年、関東のお同行に、「信心の人は如来とひとしい」ということを、くり返しお示しくださっております。おはずかしい、何のとりえもない悪人凡夫であります。しかし、信心の人は裟婆にいるまま如来に等しいのであります。
この功徳の利益を『無量寿経』には「すなわち往生を得て不退転に住す」とも、『阿弥陀経』には「諸仏の念力に護られて、仏のさとりの智慧を開いて一生のあいだ退転することなく、未来仏になる」と、説かれてかります。
曽我量深先生が、「信心を得る人は裟婆と浄土と二重になる。だから生活が健康である」という意味のことを、おっしゃった言葉が思い合わされます。お法に気のない人は、分別を頼みにして自我中心に生きることしかありませんので、分別にひきまわされて、都合のよいときはよいが、都合がはずれると行きづまります。開こうと努力するほど、壁が厚くなって、苦しみ悩みを深めるばかりです。
信心の人は、苦しむこと悩むことを契機として、浄土を願う目覚めの一念にたちかえることができます。すると苦しむこと悩むことの意味が見い出され、それだけ広く深く道を開いて、足を一歩前に出すことができる。そうなりますと、人生経験のすべてのことをむだなく生かすことができるので、不退転であります。
私のような自我のつよいものは いつでもナムアミダブツの 御光照がないとあぶない 親鸞さまもいてくださる
-榎本栄一-
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