ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
舎利弗、於如意云何。何故名為 一切諸仏 所護念経。舎利弗、若有善男子善女人、聞是諸仏所説名、及経名者、是諸善男子善女人、皆為一切諸仏、共所護念、皆得不退転 於阿耨多羅三藐三菩提。是故舎利弗、如等皆当 信受我語 及諸仏所説。
舎利弗、汝が意において云何。何のゆえぞ、名づけて、一切諸仏に護念せらるる経とする。舎利弗、もし善男子・善女人ありて、この諸仏の所説の名および経の名を聞かん者、このもろもろの善男子・善女人、みな一切諸仏のために共に護念せられて、みな阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得。このゆえに舎利弗、汝等、みな当に我が語および諸仏の所説を信受すべし。
訳しますと、、「舎利弗よ、どう思うか。どうしてこの『阿弥陀逢』が、「すべての仏方に護念せらるる経」と名づけるのであろうか。舎利弗よ、もし法を聞く男女があって、諸仏が説かれる名号と、この経の名を聞いて信ずるなら、諸仏の念力に護られて仏のさとりの智慧を開き、未来仏となることができる。舎利弗よ、だから私が説くところ、諸仏が説かれるところを信じてほしい」。
これからは、信心の利益をあげて信をすすめられます。その中、この一段は阿弥陀仏の名号と経の名を聞いて信ずるなら、阿弥陀仏のさとりの智慧を得ることができることを説いて、信をすすめられるのであります。
「諸仏が説かれる名号とこの経の名を聞いて信ずる」とありますが、諸仏が説かれる名号は、南無阿弥陀仏のみ名であります。経の名を聞くというは、この『阿弥陀経』は「すべての仏方に護念せらるる経」とも言われますから、この経の名を聞けば、諸仏によって証明し護念されるみ名であることが知られます。
ですから、南無阿弥陀仏の名号のいわれと、その名号は、この経の名のように諸仏が念力をもって護り、身をもってその真実を証明して、私どものところまで伝えてくださったみ名であることを、聞いて信ずるということであります。
ところで、この「開いて信ずる」ということですが、真宗は聞の宗教とも、聞即信ともいわれるほど、私どもにとって大切なことであります。このことについて、聖人が『仏説無量寿経』の中に、真宗の依り処となるお言葉を見い出してくださったことが思いあわされます。
『仏説無量寿経」には、「問題のある人は、諸仏が証明して護ってくださる本願の名号を聞いて、信心歓喜する。その信心は、阿弥陀仏からいただかれるまことの心である。だから、彼の国に生まれようと願うなら、すなわち往生を得て不退転に住することができる」とあります。
問題のある人は、考えても思っても道は開けません。ただ身を出して名号のいわれを聞いて、信心を得ることであります。その信心は聞即信とあるように、聞くことのほかに信心があるのではありません。名号のいわれの聞こえるままが信心であります。
ですから、信ずる心は私の心のようであるが、そのまま如来からいただくまことの心が、人間の自力無効を知らせて私の信心になってくださるのであります。
ですから澄浄の心とも言われ、人間の濁りのない浄らかな心です。こういうのが本当の信心であります。宗教はさまざまありますが、私が信ずる心は商売繁盛とか、無病息災などを祈る人間の功利心ですから、心から満足することができません。
それに対して念仏の信心は、そのままが如来のお心ですから、おのずから如来の徳によって仏のさとりの智慧を開き、不退転の人生をまっとうすることができるのであります。
あるお同行から、『六方段の意味を聞いて、私のような者に法を聞かせるために無数の仏方がご苦労くださっているのだなあと、ひしと知らせてもらいます。かつてある先生が、みそ汁の中のシャクシは、「みそ汁の中にあってもみその味を知らないように、念仏の中にあっても念仏の味を知らなかったら、シャクシと同じでないか」と、おおせになったことを思い出します。どれだけ叩かれても痛くもかゆくもないシャクシのような私に、法を聞く心の起こるのは、仏方のおかげであると気づかせてもらっております』と、便りをいただきました。
名号と経の名を聞いて信ずる人のお言葉と申してよいでしょう。
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