ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
舎利弗、下方世界 有獅子仏 名聞仏 名光仏 達摩仏 法幢仏 持法仏 如是等 恒河沙数諸仏 各於其国 出広長舌相 偏覆三千大千世界 説誠実言 汝等衆生 当信是称讃 不可思議功徳 一切諸仏 所護念経。
舎利弗、下方の世界に 有獅子仏・名聞仏・名光仏・達摩仏・法幢仏・持法仏、かくのごときらの恒河沙数の諸仏ましまして、おのおのその国にして、広長の舌相を出だして、遍く三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまう。汝等衆生、当にこの不可思議の功徳を称讃する一切諸仏に護念せらるる経を信ずべし。
下方世界のはじめに獅子仏の名があげられております。獅子仏は獅子如来言われ、こういうものにも恐れることがないように、すべてのことに恐れることなく、無碍に身に処することができるような王者の徳を具せられた仏さまであります。
『華厳経』には、五怖畏と言って、仏の智慧を開くと五つの畏れから解放されるとあります。五つの畏れと言うのは、不活畏---生活のなかで食えるとか食えないとかいう畏れ。悪名畏---人が自分の悪口を言っていないだろうかという畏れ。命終畏---死の畏れ。悪道長---悪いことが来ないようにという畏れ。大衆畏徳畏---大衆の前で語ったり行動することを畏れる。そのような畏れから解放され、ほんとうにひとり立ちして生きることができるのであります。
また師子吼と言って、ちょうど獅子がほえると百獣が恐れ従うように仏さまが説法されると悪魔、外道までが耳を傾け、おそれいって帰伏せざるをえなくなります。
名聞仏は名称如来と、名光仏は誉光如来と言われます。南方世界の名聞光仏と同じ徳を具せられた仏さまです。達摩仏は正法如来と言われます。達摩は法のことで、世界の大導師の徳をもって、苦悩する人々に正法を説かれるのであります。法幢仏は法幢如来で、西方の世界に無量幢仏とありました。
持法仏は示現一切妙法正理常放火王勝徳光明如来とも言われ、法を護持してくださる仏さまです。釈迦如来よりこのかた、インド、中国、日本と国は異なり、時代が変わっても無数の持法仏が身をもってこの法を護持してくださったおかげで今日の私どもが本願念仏の法に遇うことができるのであります。示現一切妙法正理常放火王勝徳光明如来という仏名を聞くにつけても、永い永いご苦労が感ぜられます。
ある座談会の席で「同朋会運動を本気でするなら、門徒の門の字を書き替えたらどうか。門の中へ耳を入れたらどうかと思う。なぜなら聞くということがないと門徒にならない。ところが葬式や法事をお願いに寺に来るが、法を聞く耳を開かないのでこんな純粋な世界性のある明るい数えにご縁があっても心が暗い。したがって何かあると、ご祈とうをしてもらったり、見てもらったりして、祟りやお怒りにおびえていることは悲しみの頂上でないかと思う」という発言がありました。同席していた人々はみな頭を傾けて聞かせてもらいました。
門徒という字は聖人が大事にお用いになった言葉ですし、また生きた言葉ですから書き替えることはできません。けれども私はこの一言にたいへん深い重いものを感じました。その深さ重さは何であるかと思いめぐらして気づいたことは、この発言はそのひと個人の思いつきでない。その後ろに親がある。その後ろに親があると尋ねて行けば、何千年のあいだ無数の祖先が念仏の真実を身をもって讃歎し、証明し、護念して伝えてくださった幾世をかけてのご苦労がある。その願いがたまたまその人をとおして私どもに呼びかけ、信をすすめていてくださる伝統の深さと重さにちがいありません。
そう思うと私どもは今あらためて、この広大な法に遇うことができた因縁のありがたさ、かたじけなさを仰がずにおれません。
無量無数の祖先は、私たちの身の中に生きている。そしてどうか助かってくれ、そして私を助けてくれと願っている。 -曽我量深-
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