阿弥陀経に学ぶ 第54回

  ただ聞くよりほかなき教え
   <同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>


舎利弗、南方世界 有日月燈仏 名聞光仏 大焔肩仏 須弥燈仏 無量精進仏 如是等 恒河沙数諸仏 各於其国 出広長舌相 偏覆三千大千世界 説誠実言 汝等衆生 当信是称讃 不可思議功徳 一切諸仏 所護念経。

 舎利弗、南方の世界に、日月燈仏・名聞光仏・大焔肩仏・須弥燈仏・無量精進仏、かくのごときらの恒河沙数の諸仏ましまして、おのおのその国にして、広長の舌相を出だして、遍く三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまう。汝等衆生、当にこの不可思議の功徳を称讃する一切諸仏に護念せらるる経を信ずべし。

 東方世界の次に南方世界が出てまいります。はじめに日月当仏の名が出ております。この仏さまは日月光如来とも言われ、ちょうど日は昼間を、月は夜を照らすように、昼も夜も休むことなく闇の世を照らす如来の徳を具せられた仏さまです。人生は喜びあり、苦しみあり、悲しみの多い生死流転の一生ですが、その煩悩の一つ一つが如来の光明に照らされ、常に新しく初事、初事と歩まれる仏さまでありましょう。

 名聞光仏は名称光如来とも言われます。一仏に名聞と名称の名があることによって教えちれることは、この仏さまはみ名を聞き、み名を称えることを中心として生活をしておられる。そしてそのことがおのずかち光となって、私どもにもこの道を行けと、あるべき様を身をもって示しておられる自利利他円満の徳を具した仏さまとうかがわれます。

 私どもはややもすると、聞くことに力が入ると称えることがおろそかになり、称えることに力が入ると聞くことがおろそかになる危なさをもっています。したがってその信心は個人的主観的な信心に閉ざされ、自利利他の徳にあずかることができないところにとどまっていないか深く反省させられます。

 大焔肩仏は大光薀如釆とも言われます。肩は肩に重い荷物を背負う、薀はあつまりということです。本願に目覚め、目覚めた願に生きられるすがたは、ちょうど火焔が集まって燃えるように願に燃えておられる。その焔は無明の心を焼き尽くして、土が火に焼かれると、みごとな陶器になるように、黒い煩悩が赤い浄土の徳になって、いままで煩悩を邪魔にして逃げていたが、煩悩のおかげと肩に背負う如く受け取って、身軽に歩まれる仏さまと言ってよいでしょう。

 須弥燈仏は迷慮光如来とも言われ、須弥山のような相好円満の信徳によって、世を照らしてくださるのであります。

 無量精進仏は無辺精進如来とも言われます。この仏さまは個人の救いにとどまらず、浄土の徳をもって三悪道さながらの悪世に還り、思うがごとく人々を教化し、正しい道につかせてくださるすぐれた徳のある仏さまです。

 次に東方の世界と同じように五仏だけでなく、恒河の砂ほどの諸仏がましますとあります。恒河は今日のガンジス河で、ヒマラヤ山脈に源を発してインド洋にそそぐ大河です。その恒河の砂ほどの諸仏が、「おのおのその国において、広長の舌相を出だして、遍く三千大千世界を覆って、阿弥陀仏の本願が真実であることせ証明し讃歎しておられる」とあります。

 三千大千世界というのは古代インドの宇宙観で、先回述べた須弥山世界を一世界と言い、一世界が千個集まったのを小千世界とし、この小千世界が千個集集まったのを中千世界、中千世界が千個集まったのを大千世界とします。大千世界は小中大の三種の千世界を含むので、大千世界のことを三千世界とも、三千大千世界とも称するのであります。宇宙は恒河の砂ほどの三千大千世界から成り立っていると言われます。

 無数の諸仏が三千大千世界を覆って、広長の舌相を出だしで、その国の人々に説法されるのであります。広長の舌相は仏さまの三十二相の一つです。軽く薄い舌は広く長く顔を覆うとあります。その広く長い舌を出して説法をされるということは、深い智慧をもって自由自在に法を説いて信心をおすすめになることをあらわしているのであります。


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