ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
これから六方の諸仏が念仏の真実を証明して、おすすめになるのであります。ここにたくさんの仏名が出ておりますが、そのことについてひと言申しますと、恐らくどの仏さまもいただかれる阿弥陀仏の法にかわりはありませんが、仏法が自分の能を発揮して説法されるところから、それぞれの仏名が生まれたと言ってよいでしょう。
例えば、円満な相好をもって法を説かれる仏さま、あるいはさわやかな弁舌をもって念仏をすすめられる仏さまや、文筆をもって仏徳を讃歎される仏さま等、その仏方の色あいの光が仏名になっているのであります。
東方の諸仏のはじめに阿シュクビ仏の名が出ております。この仏さまは不動如来とも言われ、何ものにも動じないことをあらわします。動乱差別の世にあっても動ずることなく、一歩一歩ふみしめて人生をまっとうすることを教えられる仏さまの名です。
次の三仏には須弥という字がついております。これはインドの古代の宇宙観をあらわし、弥須山説と言われております。世界の中心に高くそびえる大きな山があり、その山の四方に四つの世界があって、須弥四洲と言います。東勝身洲、南贍部洲、西午貨洲、北倶廬洲で、人間の住む世界は南贍部洲です。閻浮提とも言われます。日月は須弥山をめぐると言われます。
須弥相仏は、山幢如来とも言われます。昔から相好円満の徳を須弥山にたとえますので、須弥山がそびえるように相好円満の相をして大きなのぼりばたを掲げられる仏さまです。のぼりばたを掲げるということは、みずから念仏を生活とし、身をもって念仏のみ真実であることを説かれるのでしょう。念仏する人が少なく、また念仏しても念仏しながら諸神諸仏をたのむ人が多いありさまですから、念仏のみ真実ののぼりばたを掲げられる仏さまです。
第三の大須弥仏は大山如来とも言われ、大須弥山のような徳の高い仏さまの名です。『仏説無量寿経』に「仏さまが衆生済度のため行かれる所は、国も町も村もどこでもその化益にあずからぬはない」とありますが、みなその徳風に触れて念仏する人になるのでしょう。
第四の須弥光仏は山光如来とも言われ、その光明は明るく人間では手に入れることのできない無始以来の無明の闇を照らしてくださる仏さまの名です。
第五の妙音仏は妙幢如来とも言われ、美しい音声を出して自由自在に説法されるのであります。その音声は聞く人の心の底までしみ透って、ねむりをよびさまされるのです。
次にこの五仏だけでなく恒河の砂ほどの諸仏が、おのおのその国において広く長い舌を出して、その舌であまねく三千大千世界を覆うと、その国の人々に念仏が真実であることを説かれるのであります。人間では考えられないような悠大な表現がしてありますが、その意味は自由自在に法を説かれ、その説くところに嘘はない。みな真実を説いておられることが示されているのであります。
どう説かれるかというと、もろもろの仏方が阿弥陀仏の不可思議の功徳を称揚讃歎しておいでになる。だから諸仏がこの真実の功徳を証明し護念される『阿弥陀経』を信ぜよ。自力をたのみとする人はこの経を信ずることは容易でないであろう。だから恒河の砂の如き多くの仏方が、広長の大舌相をもって法を説き、証明し護念してくださっているのである。どうかこの経の不可思議功徳を信じ、如来のいのちに目覚めた人になってほしいとおすすめくださるのであります。
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