不破数右衛門の子孫
不破数右衛門には二人の子どもがあり、一人は「大五郎」(事件当時<数右衛門切腹時>6才)、もう一人は「つる」(事件当時<数右衛門切腹時>4才)であり、言い伝えられて来たことや、その補完考察は別稿「不破数右衛門の子孫」に記した。
ここでは、2015年秋から、青天の霹靂のように解明できたことについて記して残しておく。
1.大五郎の子孫が現れた。
「突然メールを差し上げます。私は不破数右衛門から数えて14代目になる者です」というメールだったのです。
「つる」の子孫の一つの系統に関しては、比較的詳細な記録が過去帳として現存するが、大五郎についてはよくわからなかったのです。
「14代目」と名乗る方からは、父は13代目、祖父は12代目、曾祖父は11代目。私は14代目になると言い聞かされて来ました」という「不破姓」を名告る方でした。
「一代」が何年かというと、一概にはいえません。それぞれの寿命が異なりますので、わずか5年しかない「代」もあれば数10年も勤めねばならない「代」もあるわけです。過去帳の長い長いスパンから割り算すると、およそ20~25年が平均値になりそうです。100年間にはおよそ4~6代ということになるでしょう。
「曾祖父は新島襄と一緒に同志社大学の設立に力を貸した人物です」と書かれていました。この曾祖父はWikipediaにも紹介されていて、その人の父、つまり氏の高祖父の名前もあるが、熊本の出身になっています。そして、記事には不破数右衛門との関係は一切書かれていません。
今まで、不破数右衛門の子孫だと名告られた方のほとんどが、親から「不破数右衛門の子孫だと大っぴらに言うのではないぞ」と念を押されたと言われました。だからどうなのかは解りませんが、「子孫云々」については書かれなかったのかも知れません。
ここで確認しておかねばならないことは、「子孫」というものは一本の縄筋のように単純な系列ではないということです。兄弟が存在すれば、兄弟ともに「不破姓」を継承して行く場合もあるし、他家へ入夫すると「他家姓」を名乗る事にもなります。
子孫も厳密に言うと三種類になり、「DNAが続いている家督相続系統」、「DNAが続いているが分家新宅系統」、「DNAは続いていないが家督相続的な系統」です。「家督相続」を一刀両断的に短絡的に解釈すると、「遺産を相続し、先祖代々の墓を守ること」ということになります。
不破数右衛門は、私の浅学な知見では、「DNAは続いていないが家督相続的な系統」でと考えています。不破家に婿養子を迎える女性がいて、そこへ入夫したということは一度も見聞したことがありません。岡野治太夫の息子に生まれ、名跡のみが残っている「不破家」を継いだということです。岡野家よりも不破家の禄の方が高かったのです。「不破家」には帳簿上の身分(職階)と禄(年俸)があったのです。
不破数右衛門の子供は2人で、一人は娘であり、他家(照明寺)に嫁いだので「不破姓」を名告りませんから、「娘系」の子孫には「不破姓」は存在しません。
唯一、不破数右衛門の子供で「不破姓」を名乗る可能性があるのは息子の「大五郎系」です。
明治になって、「苗字を使うことを差し許す」という太政官布告が出され、その後も、「苗字が不明の者は苗字を付けるように」との布告が出たのですが、「つる系」の者がその時に「不破姓」を用いることはまず考えられないことです。
大五郎が独身で僧侶として生涯を終えたのであれば数右衛門を「始」とする「不破姓」は断絶しました。しかし、後述する資料に基づいた考察からでは、「大五郎」は還俗(僧侶をやめて俗人になる)して妻帯し、子孫を残して行ったことになります。両親もおらず、祖父母もおらず、たった一人の妹も嫁いで身を安らかにしており、徳川綱吉の死去による恩赦で、浪士たちの子どもは既に赦免されていました。大五郎は、僧侶を続けなければならないことはなかったのです。
今回、名告り出られた方は、いわゆる家督相続系統ではなくて、分家・新宅をされて行った系統の方のように考えられますが、それでも数右衛門から数えて14代目であり、大五郎につながる子孫には間違いないと考えています。
その考証は、幕末から明治維新直後の資料によって考察できるのでした。
2.具体的な資料による大五郎の子孫
元名古屋市博物館の学芸員をされていた方で、在職中に「尾張藩」の資料を解読し、残されている「尾張藩城下地図」とのリンクデータを作成されたのが「松村冬樹」氏です。
このホームページに、「大五郎の後のことをご存じの方は是非お知らせください」と書いていたのがお目についたのでしよう。
氏から頂いた資料と氏の考察を元に、大五郎と尾張藩の関係を記して行くことにします。
以下の記述は、松村冬樹氏の研究により解明されたものを頂いて、ほぼコピペに近い状況で、氏の校閲と資料の引用掲載許可を頂いたものです。
なお、『尾張藩士大全』は、『名古屋城下図』とリンクされたデータ版が『名古屋城下お調べ帳』として名古屋市立博物館と名古屋市蓬左文庫で頒布されています。
犬山城番
不破数右衛門 惣領 数右衛門
辰右衛門
不破亀八郎
高五拾石
一 安永八亥八月廿三日 新規 御目見
一 天明七未二月 犬山城番拝領◇◇旨
成瀬隼人正願の通被仰出
一 寛政七卯九月 成瀬隼人正仍願知行五拾石被下置
一 同十一未十一月十九日 御馬廻組被召出
一 文化二丑十月十四日 大御番組被仰出
一 同七年十二月十八日 封物を以相尋候上願候願
諸士之身分別而不届ニ付厳重の御仕置可被仰付候得共
来春は初而御入国可被遊
思召ニ付而は段々深キ御趣意之品も被為在候間
別段御宥恕之御沙汰を以
知行并居屋敷被召上旨被出候蟄居仕可罷在旨
一 同十二以正月六日 病死
『尾張藩士大全』とは、尾張藩士の『人事記録簿』のようなものと考えればよい。篠山藩にも文化3年(1803)の資料が残されています。
『尾張藩士大全 103-135』によると、
「安永八亥八月廿三日 新規 御目見」
とあります。
「新規 御目見」とは新規採用ということで、始めて人事記録簿に登載されたということです。
安永8年(1779)は、不破数右衛門の息子の大五郎が26歳で篠山を出奔した享保7年(1722))から57年の後の出来事になります。さすれば、この初仕官をした者は大五郎ではなくて、その息子あたりの年代になります。祖父の名前を襲名し「数右衛門」と名告っています。
以下、松村氏の一文を掲載します。
『葎の滴』に次のような記事がある。
尾藩不破数右衛門の家は赤穂の人にて、鉄砲を以申立尾藩に仕へし也。赤穂浅野家不破氏は、尾に仕へたる人の母家也。此大、母家の苗字を称して尾に仕へたり。義士復讐後の事也と云。未詳
酒井註:ちなみに、葎の滴(むぐらのしずく)」とは、尾張藩の細野要斎が著した十四編の著作で、要斎26歳の天保7(1836)年正月13日より明治11(1878)年9月7日まで42年間42冊に亘る日記形式の随筆集です。(天保4年に著した巻頭、夢の記を含め、同4年よりとする説も有り。) <以上ネットより参照>
「母家」とは「母校」「母港」というニュアンスであって「母方の家」という意味ではありません)
尾張藩の不破数右衛門の家は赤穂の出身で、砲術が得意として尾藩に仕えたというのだ。赤穂浅野家の不破氏は、尾張藩士の母家だという。つまり討ち入り後、不破の名前をもって尾張藩に仕えたというのだ。〝赤穂浪士〟という名声で就職したということか? 末尾に、其後罪ありて禄を減ぜらる。博奕の事也と云 尾張の不破氏のことである。
もう一つ、
不破数右衛門御添地が家には、義士の遺物多くありと云
御添地(おそえち)というのは、今の新栄の東にあった広大な〝御下屋敷〟の東側で、御下屋敷予備地ゆえに御添地というだが、家臣屋敷の不足で屋敷地に払い下げられた。
天明5年(1785)に建中寺がほぼ全焼する大火があり、その後建中寺の西側を火除け地として武家屋敷を移した。その移転先がこの御添地だったのだ。
ともかく不破数右衛門の屋敷が御添地にあったことは間違いなさそうである。 また『金鱗九十九塵』巻第五十八の「御添地」の名家として、
不破氏 当家の先祖、元ハ播州赤穗の城主浅野内匠頭長矩に仕へて、家の騒動の刻義臣の列に入たる不破数右衛門正種と号、所謂四拾七騎の一人にして、世拳て知る所也
とあり、祖先を不破数右衛門としている。
…其後正種の子、故在て当国へ来り仕へて、今子孫御添地に居する事連綿たり…
不破数右衛門正種には幼い遺児大五郎がいたが、幼少で出家し永昌寺(篠山の大禅寺が正統)で僧となったとされる。のち還俗したとされているので尾張に来てもおかしくはない。
『藩士名寄』でさがしてみたが、天明7年(1787)に隠居した「数右衛門」、その孫で文化2年(1805)に御目見済の「大五郎」、その婿養子で文政5年(1822)に家督相続した「庄五郎」程度しか確認できなかった。
大御番組
不破数右衛門惣領 不破大五郎
一 文化二丑◇月九日 初而 御目見願済
一 同七午十二月十八日 父同姓数右衛門事不届之品有之
家名及断絶候然處来春初而御入国可被遊
格別之御時節段々深キ ◇◇◇◇被為有候故
新規御切米参拾俵被下置小普請組被仰付
数右衛門是迄之居屋敷新屋敷之法ニ而被下之
一方、幕末の文政7年(1824)、弘化4年(1847)の城下図を見ると、御下屋敷の東向の同じ場所に不破家がずっと存在する。『名寄』からは不明であるが、文政の地図では不破大五郎の名前になっており、弘化の地図には不破安右衛門の名前が見られる。天明七年の「数右衛門」から後述する幕末の不破鎌吉までが同じ不破の家系としてつながる。
「数右衛門」や「大五郎」を名乗る家は、不破正種の末裔で間違いないだろう。しかし、還俗した大五郎が尾張藩士となり、数右衛門を名乗って天明七年に隠居したとするには年数があわない。確証はないが、還俗した大五郎の子どもか天明七年の数右衛門にあたるはずである。
次に提示されているのは「名古屋城下図」である。原本の「絵図」ではなくてデジタル化されて整理がされています。
現在の地図に城下図を重ね合わせると、不破数右衛門の子孫の居宅がどこにあったのかは一目瞭然となる。
酒井註:江戸時代の城下での士・卒分の者は、その職階が変わらない限り、同じ場所で子々孫々が居住していました。士卒分の居屋敷はいわば現在の「官舎」にあたるのです。また、士卒分の者が居住する所には町名はありませんでした。町名が付いたのは、明治になって「地券」が発行され、土地が商品として売買可能になった「税制改革」により、名前がつけられたものです。
さて『金鱗九十九之塵』には、さらに不破氏の逸話がある。
二代目の不破氏如何成故か不知、君の御勘気蒙り、既に居屋敷をも召上られむとする時、
尾張藩士の二代目の不破氏が、理由は不明だが藩主の勘気を蒙って、家屋敷を召し上げとなった時、
先年赤穂城退去の砌、大石良雄が計ひし如く、屋敷の内破れたる所に修理を加へ、塵をそゝぎ、然うして屋敷を返上致しけれバ
先に赤穂城明け渡しの時、大石内蔵助が行ったように、屋敷内の破損箇所を繕い、ゴミや埃を払ってから返上したところ、
此事上聞に達し、至極神妙成致方と、公にもなゝめならず御感あそばされ、直ちにもとのごとく召かへされしとなん
それが藩主の耳に達し、とても神妙なる態度であると感心されて、召し放ちは取りやめとなったという。
大石内蔵助による赤穂城の明け渡しの作法が、広く賞賛されていたことがよくわかる逸話だ。
しかもその作法を真似たことで失職を免れたのだからよりおもしろい。
さてこの二代目の不破氏とは誰なのかを探ると、天明七年に隠居した数右衛門の惣領の亀八郎(のち数右衛門)と推測される。亀八郎は大五郎の父にあたる。
亀八郎は文化七年に、
封物を以相尋候上申顕候趣 諸士之身分別而不届ニ付厳重之御仕置可被仰付候得共 来春は初而御入国可被遊 思召ニ付而は段々深キ御趣意之品も被為在候間 別段御宥恕之御沙汰を以 知行并居屋敷被召上旨被仰出候蟄居仕可罷在旨
これは武士の懲罰履歴の定型文なのだが、士分としては特別に不届な案件だから重い罰を与えるのだが、来春は十代藩主斉朝が初入国するので、恩赦として知行と屋敷の召し上げと蟄居で済ませてやろうということなのである。
この不届きは、『葎の滴』の云う賭博のようである。賭博の罰は軽くて召し放ち、重ければ遠島のうえ所払いだ。
同日に嗣子の大五郎にも縁座による処分が出た。ところがこの処分も恩赦とともに、由緒ある家柄ということで、
新規御切米三拾俵被下置 小普請組被仰付 数右衛門是迄之居屋敷新屋敷之法ニ而被下之罷在旨
新規に切米三十俵で小普請組を命じられた。さらに父は新屋敷の法に準じて共に居住を許されたというのだ。
『金鱗九十九塵』に書かれている屋敷召し上げを免れた人物は、まずこの亀八郎であろう。
とすれば、還俗した大五郎は尾張では仕官せず、その子どもの数右衛門が尾張藩での「不破」の初代と考えられるのである。
蛇足だが、藩士の拝領屋敷は社宅のようなものである。建物の外構、建物本体、造作のうち、襖や障子などの建具と畳は個人財産なので転宅にはそれを持っていく。一方建物や塀は藩が作って貸し与えたものだから、破損箇所は修理し柱や廊下、縁などは磨き上げて返す決まりになっていた。
社宅を掃除して返すだけでリストラ撤回ならありがたい話なのだが、不破氏は「由緒の家」というアドバンテージがあったゆえの決定であろう。
「金鱗九十九之塵」(こんりんつくものちり)
桑山清左衛門の著で成立は天保の末年以後弘化頃までとされています。天保のころの名古屋の市井の様子が綴られたものです。
以上が松村冬樹氏から頂いた研究の中の「不破数右衛門」に関連する資料と文章です。
これらの最後に明治になってからの資料も付けられていました。
それは、廃藩置県になって、『秩禄処分』が実施されるにあたって、尾張藩士の禄高等が調べられた『尾参士族名簿』の一部分の箇所でした。
第一大区六小区 板屋小路三ノ切十三番地住
元名古屋県士族
実父不破伝兵衛弟通称鎌吉事
永世禄八石六斗 士族 不破友助 (印)
明治七年 八年一月二十一年二ヶ月
内壱石六斗奉還
文久六年十二月廿四日伝兵衛死去跡家名相続
第一大区六小区 板屋小路三ノ切十三番地は御添地の明治五年頃の町名
八年一月二十一年二ヶ月とは明治8年(1875)1月で、不破友助(通称鎌吉)が21歳2ヶ月の年齢のこと
さらに、『名古屋城下図』の明治3年版が存在しているのです。
大五郎・安右衛門・鎌吉と、全く同じ場所に居住し続けていることがわかります。
「尾張藩士大全」と「城下地図」に見え隠れしながらも、明治8年までの足跡をたどることができました。
不破鎌吉以後の足跡は全く知る由もありませんし、現在では、明治以降のことについての調査発掘はもう全く不可能です。
安永8年(1779)に不破数右衛門の孫の数右衛門が尾張藩に仕官し、明治8年(1875)年に不破鎌吉(友助)の名前が残る96年間、それぞれの「代」で枝分かれして行った兄弟たちがあったでしょうが、枝分かれして行った先を突き止めることは不可能に近いのです。
「我が家の先祖は不破数右衛門につながる」という伝承しかツテはありません。これ以後のことは、知っておられる方がありましたらお知らせいただければと思います。個人情報ですから、他へ伝えることはありません。
何代もの宗玄寺住職が気にかけて、その都度何かの手がかりを求めてきたことですが、インターネットという情報網の発達の結果、こんな情報を得ることができました。
松村冬樹氏には大変感謝申し上げる次第です。
なお、松村冬樹氏の『名古屋城下図』に関する講演のご様子はYoutubeでたくさん公開されています。
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