ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
其人臨命終時、阿弥陀仏、與諸聖聚、現在其前。是人終時、心顛倒、即得往生 阿弥陀仏 極楽国土。
その人、命終の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と、現じてその前にましまさん、この人、終わらん時、心顛倒せずして、すなわち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得ん。
お釈迦さまは、「一心不乱に念仏する人は、その功徳によって、この世の命の終わる時、つまり臨終に、阿弥陀仏が聖者方とその人の前に現れてくださるにちがいない。だからその人はその力によって、命終わる時まで信心は消えることなく阿弥陀仏の国に生まれることができる」とお説きになりました。
念仏する人は、臨終に阿弥陀仏が聖者方と共にお迎えくださると説かれるお言葉に、お釈迦さまの深いご親切が仰がれます。なぜかというと、臨終にお迎えいただきたいということは、私ども人間の心にかくれている願いといってよいからです。命の終わる時は人生の精算期です。ことに今日のように楽しみの多い世の中になりますと、命終わる時には楽しんだだけ空しい心に閉ざされるにちがいありません。その時、仏方に迎えられて心静かにあの世へ行きたいと願うでしょう。
あるいは一生悪を重ねてきた人は、『観無量寿経』には、命終わる時「地獄の衆火、一時に倶に至る」とありますが、その人は仏さまのお迎えを切に願うのであります。
世間で、あの人は枯れ木が枯れるような静かな往生であったとか、あの人は苦しんで死んだとかと、臨終のよしあしを沙汰しますのは、臨終来迎を気にする証拠です。お釈迦さまはこういう人間の心に同じて、臨終来迎を説いて念仏のご縁を結ばせてくださるのであります。そのことによって、ついには来迎を求めるのは自力の人であることを知らせ、真実信心に目をさまさせて、臨終のよしあしをいう必要がないほど、障りなく生死を尽くすことのできる人にしたいという、大悲のお心のこもったご説法であります。
親鸞聖人は「末灯鈔』に、臨終に来迎を求めるのは自力の人である。真実信心を得た人は、如来の光明に摂め取られるので臨終をまつことはない。また来迎をたのむ必要はないと仰せになっております。ということは、聖人は臨終を信心を得る一念にひきあてて教えてくださっております。信の一念に自力に死して本願他力に生まれるのであります。
覚如上人は、『執持鈔』に「帰命の一念を発得せば、そのときをもって裟婆のおわり、臨終とおもうべし」と、今の一念にお受けとりになりました。ですから信ずる一念に裟婆が終わって、向こうから自然に仏方がお迎えくださると申してよいでしょう。如来の光明に摂め取られるということは、言いかえると仏方のお迎えを受けて、人生を歩む身になることであります。
かつて、あるお寺のお座敷に、暁鳥敏先生の「常来迎」と書いた軸が掛かっており、たいへん印象深く拝しましたが、私どもは常に来迎にあずかっているのであります。『無量寿経』には「その人の前に現じ」と、『阿弥陀経』には「現じてその人の前にましまさん」とありますが、現在ただ今の来迎であります。常にお浄土から迎えに来てくださっております。善いことにも、悪いことにも、なることにも、なちぬことにも、仏さまが迎えてくださる思召が仰がれて、裟婆にあるままが、極楽浄土への道中をさせてもらうのですから、命終わる時のよしあしをいう必要はないのであります。ですから、『阿弥陀経』には「命の終わる時まで信心が消え失せることがない」とありますし、蓮如上人は『御文』に「弥陀如来の摂取の光明におさめとられまいらせたらん身は、わがはからいにて地獄へもおちずして、極楽にまいるべき身なる」と、妙を得たお言葉でお示しになっております。
もう亡くなりましたが、私の存じております奥さんは、小児麻痺のお孫さんを「この孫が私に法を聞かせてくれるのです。私にとって仏さんです」と、実感をこめて語っておられました。奥さんには、孫の姿になってお浄土からお迎えくださる仏さまといただかれたのでありましょう。仏の肌ざわりを感じるように大事にしておられました。
仏さまはどこにおられるのか。われを南無阿弥陀仏と称え念ずる人の直前においでになります。 -曽我 量深-
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