阿弥陀経に学ぶ 第49回

  ただ聞くよりほかなき教え
   <同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>


 お釈迦さまは、「念仏を称え心に仏を思うこと(執持名号)、もしは一日、乃至、もしは七日の間、一心不乱であれ」と励まし勧めてくださっております。聖人はこの励ましのお言葉に、念仏を称えるその心が自力にとどまっていることを知らせて、真実信心にめざめさせたいという、ひそかな大悲が彰されていることに気づかれたことを先回申しました。

 聖人は、そのひそかに彰されている大悲をいただいて、執持名号も一心不乱もともに真実信心を彰すお言葉とお受け取りになりました。ともに真実信心を彰しますが、執持名号は、ささやかなことにも惑って方向を失う私どもに、如来の金剛のような堅いお心がいただかれるのであります。そのお心が、善いことも悪いことも摂め取って、いよいよ深く広い人間にお育てくださるのであります。

 一心不乱は、私どもは一心になろうと努力するほど、二つ三つと乱れる心ですが、如来が二心なく一心不乱に念仏して、いつでもめざめの一念に立ち返らせて歩ませてくださる真実のお心であります。真実信心のはたらきを、このように執持と一心とで教えてくださっているのであります。

 こういうご解釈によって、あらためて気づかせてもらうことは、念仏は、たとえ私か称えても私でないということであります。本願真実の名のりであって、称えても称えても私でありません。本願のまことの心が、南無阿弥陀仏として十方に響き流れるすがたであります。

 かつて、ある新興宗教が盛んであったころ、念仏を称えると地獄におちると。どうして念仏ばかり目をつけるのでしょうか、という人がありましたが、念仏には、それだけ底力があるからです。本願のまことが、道理にそむいてある心の闇を照らし、真実に目をさませと一心不乱に心の底から呼びかけてくださっております。その呼びかけに導かれ、名号のいわれを聞き開いて、真実のお心にめざめた心が信心であります。

 ですから、信心はわかるとか、わからないとかという個人的な主観的な人間の手づくりの心ではありません。私にめざめられた如来のお心でありますから、真実信心といわれるのであります。この堅い如来のお心が、右に乱れ左に乱れる私どもの心を摂め取って、常にめざめの一念に立ち返らせて、一心不乱に歩んでくださるのであります。

 この思召を承ると、称える念仏の功徳を自分にとりきって、念仏によってもう少し善い心になってとかご悪いことが来ないようにありたいとかというように、念仏を私個人がしあわせになる手段にしているような思いあがった、道理にそむいてある身のほどが知らされて頭が下がるばかりであります。

 森ひなさんというおばあさんが「他力他力と思うていたが、思う心がみな自力」と驚かれたと聞いております。この驚きには、深く痛む心と感動がこめられております。自力を離れて本願の真実にめざめる一念の心のひらめきといってよいでしょう。また「罪が深いで、お慈悲が深い。そこでご恩がありがたい」と、石見の小川仲造さんは、身にあまる喜びをこぼしておられます。仏のご恩を喜ぶ人は、おのずから念仏を申さずにおれない人であります。

 「六字のみ名を称えることが、仏の徳を諾え、懺悔することになる」とありますから、南無阿弥陀仏の六字のみ名を称えることが、そのままご恩を喜ぶことになるのであります。

 『仏説阿弥陀経』は無問自説の経といわれて、問う人がいないにもかかわらずお釈迦さまが説かずにおれずして説かれたお経であります。お釈迦さまが晩年祇園精舎で、お弟子のなかに念仏を申さぬ人には、念仏をせよとお励ましになり、念仏している人には、申す心が自力であることを教え示して、真実信心を得しめたいという、やむにやまれぬお心からお説きになったご親切があらためて仰がれます。


 歳旦にめでたきものは念仏かな
          -句仏上人-


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