阿弥陀経に学ぶ 第48回

  ただ聞くよりほかなき教え
   <同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>


舎利弗、若有善男子善女人、聞説阿弥陀仏、執持名号、若一日、若二日、若三日、若四日、若五日、若六日、若七日、一心不乱、

 舎利弗、もし善男子善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心にして乱れざれば

 前回は、私どもがそれぞれの縁によって修する善は、煩悩の雑った善であるから、そういう少善根福徳の因縁では、極楽浄土へ生まれることはできないことを申しました。それならどうすればよいかという、ことに大事なことについて、これからお説きくださるのであります。

 お経には「善男子・善女人があって、阿弥陀仏を説かれるのを聞いて、名号を忘れず、一日でも七日でも、できるだけ一心不乱に念仏をせよ」とあります。善男子・善女人とありますから、悪男子・悪女人はご縁がないのか。悪人凡夫は助からぬのかという不審をもつ人があるかも知れませんが、仏さまが仰せくださるお心は、たとえ悪人凡夫であっても、ご縁があって念仏を聞く人は、仏さまのお徳によって善男子・善女人と呼ばれるのであります。

 『無量寿逢』には「宿世に諸仏を見たてまつった人は、心に願い求めてこの教えを聴くであろう」と仰せになっております。としますと、いま私どもが念仏を聞くことができるのは偶然ではなく、宿世において仏を見、法を聞いた遠く深い因縁があるからであります。その宿善がたまたま開かれて、法を聞き念仏する人を仏さまはほめ讃えて、善男子・善女人と仰せくださるのであります。

 「阿弥陀仏を説かれるのを聞く」というのは、お釈迦さまが今まで説かれた極楽の荘厳と、智慧と慈悲の阿弥陀仏のお徳を聞いて、自分も生まれたいと願いを発す人は、ということであります。そういう人は、「名号を称えながら、仏を思うこと、もしくは一日、二日、三日、四日、五日、六日、七日、一心不乱であるならば」と、念仏を忘れず一心不乱に称えよと、お勧めくださっております。このお勧めによって、昔から長時念仏といって、命のある間つねに念仏する人もあり、また別時念仏といって、三日とか七日とか特別に日を限って、一心不乱に念仏する人々があります。

 しかし親鸞聖人は、一心不乱に念仏を称えよとお勧めくださるお言葉の中に、ひそかに彰されている仏さまのお心をお気づきになりました。お釈迦さまがこのお言葉によって、知らせたいとおぼしめす深いお心をいただいて、「はかり知ることのできぬ如来の本願のお心を明らかにして、碍りのない大信心に帰せしめたい」のが、経文に彰されたひそかなお心であるとおおせになりました。

 このことは、祖師方のお導きと、一心不乱に念仏しながら求道された聖人ご自身の体験から、教えてくださることであります。「念仏を忘れず一心不乱に称えよ」という仏さまのお勧めをいただいて、誠実に称えるなら、一心不乱になれぬ自分が見えてまいります。まことの心のない自分に気づかされるにちがいありません。念仏を称えておりますが、その心は少善根といわれる自力の執着心にとどまっております。

 その証拠に念仏を称えつつ、念仏の功徳を自分に取りきって、その功徳によって煩悩をもう少し整理をして、善くなって助かりたい。あるいは病気や失敗等の悪いことができぬようにありたい。未来は自分なりに考えた楽しい極楽へ行きたいというような、功利的な打算の心を一歩も出ておりません。

 聖人は、「本願の嘉号をもって自分の善根とするから、信心が得られぬ」とおおせになっておりますが、人間のなすことはすべて、そのことによって自分の都合を善くしようとする、功利的な心で念仏を称えております。こういうことで、真実の極楽浄土へ生まれることができるであろうか。ただ如来の本願に依る以外にないことを知らせて、如来の大信心を与えたいという、深いおぼしめしをいただかれました。

 けれども、この如来の大信心を得ることは容易ではありません。ということは、念仏という最高のお法にご縁を結んでおりますから、その心が自力であることに、なかなか気がつかぬからです。信じていると思うままが自力である。私どもは聞法しながらも、こんなところにとどまっているのではないでしょうか。


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