ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
舎利弗、不可以少善根 福徳因縁 得生彼国。
舎利弗、少善根福徳の因縁をもって、かの国に生まるることを得べからず。
お釈迦さまは、極楽浄土の荘厳と阿弥陀仏のお徳を説かれ、この私の説法を聞く人は、願いを発して極楽浄土を願えとお勧めになりました。
なぜかというと、願いを発す人には極楽浄土の徳が与えられて、法の善き友とい一処に会うことができ、真の救いをいただくことができるからであると、お述べになりました。それならどうして極楽浄土に生まれることができるかという、私どもが極楽浄土に生まれる道を、これからお説きくださるのであります。
はじめに、「少善根福徳といわれる、人間の行う浅い善行によって、極楽浄土に生まれることはできない」と、お示しになりました。裏からいえば、多善根福徳の本願念仏によって生まれることができることを教えられております。
「多」は本願他力を、「少」は人間の自力をあらわします。善根は因で、福徳は果です。善根の因によって福徳の果を得るのであります。因縁はこの場合、縁は因におさめて、「たね」という意味に受け取ってよいでしょう。
ですから、人間の自力によって修する少善根福徳をたねとして、極楽に生まれることはできない。ただ多善根福徳の本願念仏によって生まれることができるのであります。
このことを善導大師(七高僧の第五祖)は、『法事讃』というお書物に、「極楽浄土は人間の努力のとどかない真実の世界であるから、その国にはその時々の縁に随って修めるような雑り気のある善根では、恐らく生まれることはできない。だから釈迦如来は他力念仏の法を選んで、その意味を教えて、専ら二心なく一心に弥陀を念じ奉れ」と教えてくださっております。
自力の心は自我執着心に根づいておりますから、悪を伏して善を修しようと努力をし、修養を積んでも、縁がくれば煩悩に汚されてしまいます。腹を立てまい、欲を少なくしようと励んでも、現実は、励む下から腹立ちの火に焼かれ、欲の水に流されてどうにもなりません。
かりに善いことをしたとしても煩悩の雑った善で、ほんとうの善ということができません。常に理想と現実とが矛盾して、空しく流転せざるをえぬところに人間の悲しいありさまがあります。
私の存じている奥さんは、ある宗教で三力月間修養をされました。帰るときに、ご先祖とご主人に懺悔すれば幸せになれるということでしたので、いわれるようにご先祖に懺悔をしたそうです。そのときご主人が「腹にもないことを言うな」と言ったそのひと言で、懺悔している心の下からむくむくと腹が立ってきたそうです。まじめな奥さんですから、三カ月間修養をした者がひと言で腹が立つとはどういうことか、そういう自分はどういう者かが問題になって、親鷲聖人の教えを聞く人になられました。自力によって善を修しようと私どもの姿が教えられます。
お釈迦さまがお説きくださった教えは、八万四千の法門といわれでおります。八万四千の煩悩に対して八万四千の法門をお説きになりましたが、いずれも自力の善根であります。心ある人々は、自分にご縁のある教えを勉め励むのであります。
十善といって、「殺生しない。盗まない。二枚舌を使わない。悪口を言わない。飾った言葉を使わない。貪らない。怒らない。邪見を懐かない」。この十善を行う人もあれば、あるいは六波羅蜜といって、「施しをする。戒を守る。堪え忍ぶ。精進をする。心を統一する。智慧を磨く」、難行を修する人もあります。
しかし、修する心が人間の自力ですから、煩悩を伏しようとして、かえって煩悩に汚され、どれだけ努力を傾けても、つい願いを実現することができません。本願念仏に照らしてみますなら、結局、雑り気のある善であり、少善根福徳といわねばなりせん。少善根福徳によっては、真実の極楽世界に生まれることはできないのであります。
ですから、お釈迦さまは一切の善根のなかから、他力念仏の法を選んで、一心一向に弥陀を念じ、念仏を申させて極楽浄土へ生まれしめてくださるのであります。
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