ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
舎利弗、衆生聞者、応当発願 願生彼国。所以者何。得与如是 諸上善人 倶会一処。
舎利弗、衆生聞かん者、応当に願を発しかの国に生まれんと顧ずべし。所以は何。かくのごときの諸上善人と倶に一処に合することを得ればなり
今まで極楽浄土の世界(依報)と、仏・菩薩の徳(正報)を讃嘆されましたので、これから念仏して極楽浄土へ生まれよと、お勧めくださるのであります。
はじめに「衆生聞かん者」というのは、前に説かれた依・正二報を聞く者であります。この説法を聞く者は、願を発してかの国に生まれたいと願えとお勧めくださっております。ここに「発願」、「願生」と願を重ねてあります。あらためて願いの大事さ、重さが感ぜられます。お経の終わりのところに、「已に発願し・今願を発し・当に願を発して」とありますが、『阿弥陀経』には極楽浄土を願う心を発さしめたいという、釈迦如来の大悲が流れております。
それはなぜかというと、願いを発す人はもろもろの勝れた善き人と倶に、同じ処で会うことができるからであります。このもろもろの勝れた善き人を源信僧都(七高僧の第六祖)は、「仏さまの教えに救われ、身をもって仏道を背負う菩薩」であるとおおせになり、法然上人(七高僧の第七祖)は「生々世々の父母、先生、妻子、兄弟、朋友、知識等に合おうと思うなら、願いを発して極楽に生まれよ」と、お示しになりました。願いを発す人は、浄土において菩薩方と交わり親しむことができることは、ありがたいことであります。
しかし、親鸞聖人まではこのように未来の利益としてありますが、聖人は先回も述べましたように、浄土を願う人には身は裟婆にあっても浄土の徳が与えられて、浄土に等しい生活にあずかることができるのであるから、現在の利益と受け取られました。したがって「勝れた善き人と倶に会う」ことも、現在の生活の中にいただかれる浄土の利益でありまして、先輩は善き師、善き友が与えられることであると、おおせになっております。お法を聞いて浄土を願う人々の集まりの中に加えられ、互いに生命の通いあう友を持つことができるのであります。
それに対し、この裟婆はどこへ行っても、どうなっても孤独のさみしい世界であります。世間にはいろいろな友だちがありますが、本当の友ではありません。たとえ親子兄弟でも、心の底から交わりあうことができないために、孤独の集まりにすぎません。さみしいのは年寄りだけではありません。若い人もさみしいのです。今日は近代自我意識が発達し、人と人との距離が遠くなりましたので、外は騒々しい世の中になりましたが、心の内面はさみしさに閉ざされて手さぐりをしております。ですから今日ほど、生命の交わりの持てる善き友を求めている時代はないといってよいでしょう。
幸い浄土を願う人には、浄土の徳が与えられ、その徳の光はさみしい孤独の人を照らして、生命の交わりの持てる善き友に加えられるのであります。この世で浄土を願いながら人生を歩く人は光に照らされて、倶会一処の未来が開かれ、にぎやかな喜びある生活に入ることができるのであります。
そのことはまた、念仏のよき友にとどまらず、私どもが毎日出会う人々は、どういう人でも自分にとって、善き師、善き友として受け取り交わることができるのも、光の徳のおかげさまであります。倶会一処は、善い人でも悪い人でも、ご縁のある人々を同朋と見い出してゆくことができるほどの、広さと深さのある言葉と受け取ってよいでしょう。曽我量深先生は、「東岸は孤独である。西岸は四海兄弟である」という、光ある言葉を残してくださいました。裟婆は孤独であるが、浄土は世界中が兄弟である。というよりも、〝世界中の人々を兄弟とする〟という思し召しとあおがれます。
また墓石に「倶会一処」と書いてある意味も、おのずからうかがい知ることができます。私どもはどれほど墓石を拝んでいても、会うことはできません。念仏の申されるところ、たとえ、この世とあの世と境を異にしていても、生々世々の父母、兄弟あるいは妻子朋友として、倶に一処に会うことができるのであります。
見送るも見送らるるも倶会一処
-金子大榮-
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