ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
又舎利弗、極楽国土 衆生生者、皆是阿毘跋致。其中多有一生補処、其数甚多。非是算数 所能知之。但可以無量無辺 阿僧祇劫説。
また舎利弗、極楽国土の衆生と生まるる者は、みなこれ阿毘跋致なり。その中に、多く一生補処あり、その数はなはだ多し。これ算数の能くこれを知るところにあらず。但、無量無辺阿僧祇劫をもって説くべし。
先回は極楽浄土の人々の生活が述べられましたが、今回は新しく極楽浄土へ生まれる人々の生活であります。
お経には、「舎利弗よ、極楽国土に生まれる人は、みな阿毘跋致といって、不退転の位に住する。つまり仏になる資格をいただいて、三悪道に退転することのない人にせられるのである。その中には一生補処といって、この生が終わると極楽に生まれ、仏になる徳をいただいて、仏のはたらきをする人がおられる。その数は甚だ多く数えることができない。ただ無量無辺、阿僧祇劫という永い時間をかけて、説くことができるであろう」とあります。
ここに極楽浄土に生まれる人は、不退転の人にせられるとありますが、従来は「極楽の人と生まるれば」と読んで、未来極楽において不退転の人にせられることになっておりました。念仏をすれば、未来極楽へ生まれて不退転に住するという、未来不退でありました。
しかし親鸞聖人は、先輩の教えを仰ぎ、聖人自身の求道の体験から、「極楽国土の人と生まるる者は」と、お読みになりました。念仏の信心を得るなら、その一念に極楽国土に生まれる人にせられ、身は裟婆にあっても不退転に住すると、未来不退に対して現生不退であると、はっきり教えてくださっております。たとえ身は裟婆にあって、なんのとりえもないお恥ずかしい者でも、念仏の信心を得れば極楽の徳をいただいて、不退転の人にせられるのであります。
不退転の人というと、勇ましい人のようですが、そうではありません。私どもの日常生活は貪愛の泥をかぶり、瞋憎の渦に巻かれて、ささやかなことに心が惑って、うろうろとあとずさりしずめであります。けれども、一度信心を得た人は、惑う心を手がかりとして、これを不退に転じ、いつでも足を一歩前に出して、この人生を前向きに歩むことができるのであります。
ことに今日の世のありさまを見るにつけても、ありがたく思いますことは、聖人は「不退転の某は、冥衆護持の利益にあずかる」と仰せになっております。冥衆は目に見えない天神、地祇、梵天等の衆であります。この冥衆に護持されるのであります。もし信心がないと冥衆をたのみ、祈祷したり、見てもらったり、怒り、祟りにおびえたり、あるいは日や方角のよしあしに惑わねばなりません。けれども信心の智慧がひらけると、その冥衆に護持されて、心から明るい安らかな生活が与えられます。ですから聖人は、「不退のくらいすみやかに えんとおもわんひとはみな 恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし」と、和讃をもってお勧めくださっております。
また不退転の人には、一生補処の徳が与えられるのであります。この生が終わると極楽浄土に生まれて仏になり、仏のあとを継ぐことのできる人にせられるのであります。
弥勤菩薩は、等覚という、仏に等しい最高の位の菩薩ですが、今、兜率天におられ、次の生には人間界に生まれて、釈迦如来のあとを継いで仏法を興して仏になられるので、補処の弥勤といいます。
しかし聖人は、信心を得れば本願の御はからいによって、弥勒と同じ徳にあずかると教えられました。聖人が晩年関東のお同行に出されたお手紙に、「信心を得た人は、弥勤に同じ位であるから、浄土の真実信心の人は、この身こそあさましい造悪の身であるけれども、心はすでに如来とひとしい」と、お諭しになりました。信心の人は弥勤に同じ位であり、如来にひとしいのであります。如来にひとしい人は、弥勒菩薩のように仏さまのあとを継いで、仏さまのお仕事を背負うのであります。自分さえ極楽に行けばよいという個人主義の〝お客根性″を離れて、一人ひとりが仏さまのあとを継いで、念仏のご縁の広まるために、念仏の種が断えないように、身をもってこの願いに生きるのであります。
そういう人々が、数えきれないほどたくさんおいでになると、仰せになりました。
旧ホームページからの移転