阿弥陀経に学ぶ 第44回

  ただ聞くよりほかなき教え
   <同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>


又舎利弗、彼仏有無量無辺 声聞弟子、皆阿羅漢。非是算数之所能知。 諸菩薩衆 亦復如是。舎利弗、非仏国土、成就如是 功徳荘厳。

 また舎利弗、かの仏に無量無辺の声聞の弟子あり、みな阿羅漢なり。これ算数の能く知るところにあらず。もろもろの菩薩衆もまたまたかくのごとし。舎利弗、かの仏国土には、かくのごときの功徳荘厳を成就せり。

 これから、菩薩の徳が述べられるのであります。経文には「また舎利弗よ、仏さまのみもとには声聞といって、法を聞いて修行をする弟子たちがおられ、これらの人々は供養を受けるに値するさとりを得た阿羅漢で、その数は数えきれぬほどである。また自ら道を求め、他を教化される菩薩の数も極て多い」とあります。

 昔から極楽浄土に生まれるなら、同体のさとりをいただいて、みな菩薩ではないか、どうして声聞弟子がおられるか、といわれております。このことについて先輩はそれぞれ解釈をしておいでになりますが、私は金子大榮先生のお言葉に、たいへん啓発されました。

 先生は、「経説に声聞と菩薩に分けられたのは、弥陀のお弟子はその聞の徳において声聞であり、教化の徳において菩薩であるといってよいと思います。しかし、浄土の声聞は終日聞法せられることがそのまま菩薩の行であり、浄土の菩薩は常恒に教化せられることが、そのまま声聞の行であります」と、言っておられます。声聞によって聞法の自利を、菩薩によって教化の利他の徳が教えられております。極楽浄土の人々は、自利利他円満の徳を生活しておられるのであります。

 この世は自利と利他が矛盾して両立しません。自分の救われることなくして、他の人を救うことはできませんし、他の人が救われるとき自分もはじめて救われるのです。ですから他の人が救われない間、自分の本当の救いは開けてきません。そこで何とか自他共に救われる、自利利他円満の世界を実現して、真の救いを与えたいという大悲から、本願をおこし極楽浄土を建ててくださったのであります。

 本願の徳によって終日法を聞くことが、その国の人々の生活であります。どういうことも聞法の縁と受けとって、怠りなく聞法に精進しておられます。阿羅漢ですから、法をいただいた人ですが、いただけばいよいよ聞かずにおれないのであります。自分はいただいたからもう聞かなくてもわかているというのは、本当にいただいた人の聞き方ではありません。聞こえるほどありがたく、不思議不思議と聞かずにおれません。竹部勝之進さんは、「きく きく きくよろこびつきず きく きく ききにうまれてきたのです きく きく きくにきわまる」と、聞法の喜びを詠まれました。

 また、聞法することが菩薩の行であります。聞法によっていただいた喜びは、自分に止めておくことができず、ご縁のある人に伝えずにおれません。そのことがそのまま、本願の徳のはたらきであります。考えますに、人間が人間を教え、教化することはできません。教えることができると思うのは、我が身知らずの思いあがりです。自分が教えをいただけば、いただいた教えが教えの徳として他に伝わることが、本当の教化であります。そしてまた、他を教化することが、自分の聞法の行になると、教えられております。

 極楽浄土には、阿弥陀仏のご説法を聞いて喜んでいる声聞や、その喜びを伝えて教化しておられる菩薩が、数えようとしても数えきれないほど、たくさんおいでになります。数えきれないほど無数におられることによって、極楽浄土は、すべての人に開かれた心の故郷であって、そこに帰らねば落ち着くところがないことが、教えられていると申してよいでしょう。

 私どもの周囲にはいろいろな集まりがありますが、法を聞く人々の集まりは、何とにぎやかな、心の安まる思いがするではありませんか。ある大会社の重役さんが、田舎の寺に参詣されたとき、たまたま住職を囲んで聞法の会が開かれていました。重役さんはその法縁の喜びに触れて、「私は皆さんが羨ましい。できるなら毎月仲間に入れてもらいたい」と、しみじみ述懐されたと聞いております。私どもの空しさは、何がないのでもありません。聞法生活が見失われているからでありましょう。


 消さである 仏灯に来る きりぎりす
  -句仏上人-


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