ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
先回は無量光について申しましたが、続いて無辺光です。聖人は、「解脱の光輪きわもなし 光触かぶるものはみな、有無をはなるとのべたまう 平等覚に帰命せよ」と、和讃されました。
いかなる悪業燥悩にも縛られることのない、仏さまのお徳から放たれる光を無辺光といいます。この光に身が育てられると、有るとか無いとか、成るとか成らぬとかいう邪見をはなれることができるのであります。ですから、この無辺の光をもってすべての人々を、平等に照らしてくださるこの仏さまに帰命せよと、お勧めになりました。
無碍光は、「光雲無碍如虚 一切の有碍にさわりなし 光沢かぶらぬものぞなき 難思議を帰命せよ」とあります。光明は、ちょうど雲が山や村を覆うように、あまねくゆきわたり、どういう邪魔物にも障りにならないから、無碍光と申しあげるのであります。どのように障りをなくしてくださるかというと、「光沢かぶらぬものぞなき」とあって、沢は潤沢、うるおいです。雲は潤いがあって必要に応じて滴を降らせ、草や木を潤して芽を生ぜしめるように、阿弥陀仏の光は潤いがあって、智慧を開いてくださる。智慧が出ることが人生の潤いで、潤いが出ると自然に障りがなごんでまいります。
分別を頼りにして立てた人生には、潤いがありません。分別は必ず自と他とを分け、自分を中心としてしか考えられぬという性質をもっております。自分の思いをとおさなければ承知のできない、暗い私心ですから潤いがありません。その分別を頼る執着心によって、内には食欲、瞋恚、愚痴の煩悩が障りとなり、その内の障りが外に障りをつくって、自分で閉ざして暗い中に苦しみを深めております。阿弥陀仏はこの障りの多い私どもの生活をあわれんで、潤いのある智慧を与えて、どういう中にも無碍に処することのできる身に、したててくださる徳を具しておいでになります。
このように阿弥陀仏は、無量、無辺、無碍の光ですが、ただばかりではなく、十方の国を照らして、碍げることのない徳を具しておられるだけでく、この光た照らされて光の徳を仰ぐことのできる人に、その徳を与えて、無碍自在の人にしてくださるはたらきを、阿弥陀仏と名づけるのであります。そのところを聖人は、「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」と仰せになりました。
念仏の智慧に目を覚ました人は、光に摂め取られて捨てられることのない利益にあずかるのであります。光に摂め取られるということは、ただ光に包まれることではありません。光に摂め取られると、障りが障りのまま徳に転ずるのであります。
私どもは障りを除くことを考えますが、貪欲、瞋恚、愚痴は除くことができません。けれども光に照らされると食欲も瞋恚も愚痴も潤いを受けて、障りの深さ、あさましさが見えてきますと、照らされて生きることの尊さ、ありがたさが仰がれてまいります。闇の深さが光のありがたさを思わしむるのであります。
光の尊さ、ありがたさを仰ぐということは、具体的には、自分の周囲に仏さまかおがめると申してよいでしょう。夫にも妻にも、子どもにも仏さまがおがめる。業障を痛む心の深いほど、限りなく仏さまを見い出しておがまずにおれぬような、本当に明るい世界が恵まれることです。こうなると食欲、瞋恚、愚痴の障りのままが、仏さまをおがみ、明るい世界を開く手がかりとなって、生きる力に転ずる。障りが障りのおかげさまと見直され、一つの無駄もなく生かすことができるはたらきを、摂め取って捨てられぬと教えられました。
その味は難思議で、何とも思いはからうことができません。目をさました人が、なるほど、なるほどと身にうなずくよりほかにない、不思議の徳であります。
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