阿弥陀経に学ぶ 第41回

  ただ聞くよりほかなき教え
   <同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>


舎利弗、於如意云何。彼仏何故 号阿弥陀。舎利弗、彼仏光明無量、照十方国、無所障碍、是故号為阿弥陀。又舎利弗、彼仏寿命 及其人民 無量無辺 阿僧祇劫、故名阿弥陀。

 舎利弗、汝が意において云何。かの仏を何のゆえぞ阿弥陀と号する。舎利弗、かの仏の光明、無量にして、十方の国を照らすに、障碍するところなし。このゆえに号して阿弥陀とす。また舎利弗、かの仏の寿命およぴその人民も、無量無辺阿僧祇劫なり、かるがゆえに阿弥陀と名づく。

 国土荘厳が終わって、これから仏、菩薩の荘厳をお説きくださいます。はじめにお釈迦さまは、「舎利弗、汝が意においていかん」と、つまりお前どう思うかと問われました。『阿弥陀経』は、お釈迦さまがこのことひとつを言い残さなければ、この世に出た本懐が満足せぬという、切なる願いをもってお説きになった、ご遺言の経といわれております。舎利弗の名を呼びつつお説きになる無問自説の経で、舎利弗はただうなずいて聞くばかりであります。

 この『阿弥陀経』のお話をテキストにして学んでおられる、あるお寺の聞法会の方々は、お釈迦さまが私の名を呼んでご説法してくださっているようにいただけてなりません。「静子よ、静子よ」と、ひと句切りごとに私の名を呼んでお諭しくださいます。うろうろしているものですから、やるせないお心でお説きくださるご親切がありがたくて、聞かずにおれぬと、皆さんが喜んで学んでおられることを、ご住職から聞きました。2000年を超えて、お釈迦さまのおあわれみが、今日の私どもの心の底にまで伝わってくるのでしょう。

 ことにここでは「お前どう思う」と、問うておられます。ということは、それほど大事なことが説かれるのであります。舎利弗は答える言葉もなく、たた、うなずいて聞いております。うなずくことが、身をもって答えていることかも知れません。説く人と聞く人とが、同体の大悲に包まれて、諭すごとくに説き進められる、祇園精舎の会座がうかがわれます。

 そこでお釈迦さまは、極楽浄土の仏さまを、どうして阿弥陀と名づけるのであろうか。お前どう思うか。舎利弗よ。かの仏さまの光明は、はかりなく、十方の国を照らして、さわりがない。だから阿弥陀というのである。また舎利弗よ、かの仏さまの助妙もその国の人々の寿命もはかりなく、阿僧祇劫という人間では考えることのできない、永い深い命である。だから阿弥陀と名づけるのであると説かれました。

 ここで、心しておきたいことは阿弥陀仏というお方がどこかにおられて、私どもを助けてくださるのではありません。阿弥陀仏はそういう偶像ではありません。阿弥陀仏という名は、はかりなき徳をあらわします。はかりなき徳を阿弥陀仏と名づけるのであります。私どもを助けてくださるお徳のほかに仏さまはありません。徳というてもどこかにあるのではなく、私どもを助けてくださる徳のはたらきが阿弥陀仏と申してよいでしょう。その徳を代表するのが、光明と寿命であります。

 光明はまた「智慧のかたち」といわれ、私どもの世界を外から照らし、育て、摂め取ってくださる智慧であります。寿命はただ生命が永いというだけでなく、私どもの内に深くなり下がって、永劫に願いをかけられる慈悲であります。光明は外から照らし、寿命は内に深く願いをかけてくださる、はかりなき徳のはたらをを阿弥陀と名づけるのであります。

 そこで光明の徳について申しますと、「光明ははかりなく十方の国を照らして、さわりがない」とおおせになりました。昔から、この「はかりない」徳を無量光、「十方の国を照らす」を無辺光、「さわりがない」を無碍光といわれて、この三光が総じで阿弥陀仏の光の徳をあらわすのであります。この三光の徳は、幸い、私どもが朝晩、身近にいただきますご和讃の中にありますので、そのご和讃によって、光の徳をたずねたいと思います。

 無量光については、「智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく光暁かぶらぬものはなし 真実明に帰命せよ」とあります。如来の智慧の光は、はかりがない。智慧がないために、差別動乱の人生に苦しんでいる人々を、くまなく照らして、ついに無明の闇を破って喜びを与えてくださる。だから、このような明るい真実の光の徳に帰命せよと、おすすめになりました。


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