ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
舎利弗、汝勿謂此鳥 実是罪報所生。所以者何。彼仏国土、無三悪趣。舎利弗、其仏国土、尚無三悪道之名。何況有実 是諸衆鳥。皆是阿弥陀仏、欲令法音宣流、変化所作
舎利弗、汝、この鳥は実にこれ罪報の所生なりとしうことなかれ。所以は何ん。かの仏国土には三悪趣なければなり。舎利弗その仏国土には、なお三悪道の名なし。何にいわんや実にこのもろもろの衆鳥あらんや。みなこれ阿弥陀仏、法音をして宣流せしめんと欲して、変化して作したまうところなり。
極楽浄土には、もろもろの鳥が、昼夜六時に和雅の音声を出して、法を説いているとありました。しかし、鳥が鳴いているというと、この世のような鳥がいるように、実体的に受け取られるおそれがあります。ですから罪を犯した報いで生まれた鳥ではないことを、続いてお説きくださるのであります。それはなぜかというと、極楽浄土には地獄、餓鬼、畜生という三悪道がない。まして三悪道の名すらない世界だからです。
三悪道といいますのは、お経には三悪趣ともありますが、趣とか道というのは、自分の業によって趣く境遇をいいます。この境遇はどこにあるというものでなく、仏さまが見そなわすと私どもの世界は、三悪道であります。地獄は地下の牢獄といわれ、自分の造る悪業に縛られて、自分で獄に入って苦しむ境遇です。また獄苦処ともいわれます。
苦はもちろん苦でありますが、楽ということまでが苦しみになるような、苦しみの極まりであります。
餓鬼は、悪業によって貧欲の世界に生まれ、常に飢えや渇きに苦しんでおります。たまたま食を得ても、口に入れようとすると火になって、食することができません。ということは、手に入れたものによって、かえって身を焼かれることを表します。焼かれても目が醒めず、限りなく求めて苦しんでおります。
畜生は、鳥獣のように蓄養されて生きているものをいいます。悪業の報いによって、畜生に生まれるといわれます。私どもも、お金や子どもや地位名誉等につながれて、衣食住を蓄えることだけで生きているなら、人間の顔をしていても、畜生に等しいでしょう。
いつの時代でも人間が心から願っていることは、三悪道のない世界でありたいということです。三悪道のない世界を実現して、喜びある心安らかな生活をしたいと願っております。政治家も経済界も教育者も、究極は三悪道なからしめたいという、人類の悲願を背負うて、それぞれの分において努力を傾けております。にもかかわらず、いつの時代でも願いが願いに止まって実現しませんので、空しく流転しています。ここに人間の歴史の悲しいありさまがあります。
現代の社会は、その努力が実って、もおかげさまで科学も技術も経済も文化も、めざましく進歩発展し、現代文明の花はきらびやかに咲きました。しかし、私どもはどれだけ喜びをかみしめ心安らかに生活しているかというと、実は恵まれたこと以上に、思いもかけぬ困ったことなどに頭打ちをして苦悩を深め、三悪道さながらのありさまを呈しているというては、言い過ぎでありましょうか。
阿弥陀仏は、この人類の悲願をすべての人々に実現するために、この世の三悪道になりさがって、『無量寿経』の四十八願の第一願に、「たとい私が仏になっても、国に地獄、餓鬼」畜生があるなら「正覚をとりません」と、無三悪趣の願を、第十六願には「たとい私が仏になっても、国の中の人々に、不善の名を聞く者があるなら、正覚を取りません」と、三悪道の名すらない世界を建てたいと誓われ、その本願が成就して、三悪道はもちろん、その名すらない極楽浄土が、建てられたのであります。
ですから、極楽のもろもろの鳥も、罪の報いによって生まれた鳥ではありません。阿弥陀仏が、「私が仏になったら鳥形となって説法をし、また樹林の風になって説法をしたい」という本願によって、阿弥陀仏が鳥に変じて、ご説法くださるのであります。それは鳥だけでありません。宝林宝樹の風も法音を宣布するために、荘厳されたのであります。
善導大師は、「鳥の相にまでなって、浄土を願わんめんとしてくださる大悲を思えば、身の毛もよだち、骨を砕いても仏恩を報ぜずにはおれぬことになる」と、深く仏恩を謝しておいでになります。
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