ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
五根・五力の次に七菩提分が出ております。菩提は覚りで、極楽浄土の徳に目覚めた覚りです。目覚めた人を覚者といいます。分は因で、覚りの果に至る因の修行です。七菩提分をまた七覚支ともいいます。法を修するための七種の大事な行法です。
第一は択法覚支です。教えが真実であるか虚偽であるかを択びわけ、教えの真実を見誤らぬことです。第二は精進覚支で、正しい教えを択んで、この道に精進努力をすることです。第三は軽安覚支で、修行において昏沈といって、心が重く沈むときには軽やかで安定するよう努力をすること。
第 四は念覚支で、いつも法を忘れず、善きにつけ悪しきにつけて念仏することです。第五は捨覚支といって」昏沈の反対を掉挙といいますが、うきうきと高挙がりをする心を捨てて、平等に住せしめることです。第六は定覚支で、心を寂かにして執着心を離れること。第七は喜覚支といって、正しい教えを喜びをもって習うことであります。
次に八聖道分というは、八種の正しい生活態度で、通常八正道といいます。正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八種の正道です。正見は、正しく見るということです。正見の反対は邪見で、迷いの根本であります。したがって正見の眼を開きませんと邪見を邪見と知らず、迷いを深めるばかりです。第二は正思で、正しい健康な考えを持つことです。第三は正語で、正しい言葉を使うことです。悪口は人の心を閉じますが、正語は人の心を開き喜びを与えます。第四の正業は、正しい行為です。
五番目は正命です。正念は人間の正しい生活の在り方をいいます。安らかな心で、満足して生活をたてることができないようでは、本当に道を求める人といえません。第六の正精進は、懈怠の心を離れて、仏さまの教えを聞くと共に教えの実践に勇猛精進をすることです。第七の正念は、常に正法を念ずることです。第八は正定で、寂かな心をもって智慧を深めることをいいます(八正道については東本願寺出版部から、『八正道』シリーズが出版されていますので読んでください)。
『称讃浄土経』には、無量の妙法とありますが、極楽のもろもろの鳥は、和雅の音を出して五根・五力等の無量の妙法を説いております。鳥は無心に鳴いているのですが、極楽の人々は常に法を念じておられるので、耳のはたらきが清らかにすみとおって、鳥の鳴き声に微妙の法が聞こえるのであります。
私の存知ているお同行に、お寺の鐘が「ご恩ご恩」と呼んでくださるのでお参りせずにおれませんと、よくお参りされる方がありました。日ごろから聞法を心に入れておられるお同行には、鐘の音にも「ご恩ご恩」という響きが聞こえるのでしょう。こういうことを聞くにつけても、極楽浄土の人々は鳥の鳴き声に、無量の妙法を聞かれるということがうなずかれます。
しかし、念仏を信じて極楽に生まれる人々に、どうして五根・五力という修法が説かれるのかということが、昔から言われておりますが、私はお釈迦さまが念仏生活の内容として、五根・五力等の法をお説きくださったと、受け取ってよいのでないかと思います。
念仏を信ずる人は仏さまのお徳によって、相対的な自力、他力を離れ、どういうこともすべて絶対他力の念仏生活内容と見直され、生活に生かすことができるのであります。
さて極楽浄土の人々は、この法音を聞いて、皆悉く仏を念じ、法を念じ、僧を念ぜられるとあります。念仏は阿弥陀仏の本願を念い、念法は名号不思議の法を念い、念僧は極楽の菩薩方を念うのであります。極楽は、念仏、念法、念僧に帰依し、讃嘆する生活であります。
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