ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
其国衆生、常以清旦、各以衣裓、盛衆妙華、供養他方十万億仏。即以食時、還到本国、飯食経行。舎利弗、極楽国土、成就如是 功徳荘厳 (裓=衣偏+戒)
その国の衆生、常に清旦をもって、おのおの衣裓をもって、もろもろの妙華を盛れて、他方の十万億の仏を供養したてまつる。すなわち食時をもって、本国に還り到りて、飯食し経行す。舎利弗、極楽国土には、かくのごときの功徳荘厳を成就せり。
ここには、極楽浄土の人々の生活が象微的に説いてあります。毎日どういう生活をしておいでになるかというと華皿に華を盛れて、十万億の諸仏を供養しておいでになる。諸仏を供養することが、極楽浄土の生活であります。
供養というは、『無量寿経』に「恭敬供養」とあります。敬いの心から仏恩に報ずるために、華や香をもって諸仏に捧げることであります。この世の人々は、自分が金をもうけるとか、子どもを育てるとか、地位名誉を得る等、個人の幸福だけを考えておりますが、極楽浄土の人々は個人を超えて十万億の諸仏を恭敬し供養されるのであります。
その供養される具について、先回、曼陀羅華は供養の具であり、それは雨が時に応じて降るように、必要に応じて与えられると申しました。『無量寿経』には、「心に欲しいと思うものは、華香、伎楽、檜蓋(衣)、幢幡(旗)、その他数限りない供養の具が自然にあらわれて、求めるにしたがって与えられる」とあります。私どもは自分の都合のよいものを求めますから、思うように手に入りませんが、諸仏に捧げられるのですから、必要なものが思うように与えられます。華や香等が必要に応じて与えられるのです。
例えば、敬いの心から捧げるなら、お茶一杯も尊い華の供養になります。聖徳太子が散歩されたとき、ある飢えた人が食を乞うた。太子は、その人の手をのせて、「何も持っていない。気持だけ受け取ってくれ」と言われると、その人は涙を流して喜んだと聞いております。まことの香り高い言葉の供養を受けて、満足したのでしよう。
金子大榮先生は、「人に供養したとき光を放つようになる」と、おおせになっておりますが、敬いの心で諸仏に捧げるとき、一杯のお茶が華となり、一つの言葉が香となるといってよいでしょう。自分のもとにあるときは、萎んだ香りのないものでも、捧げるとき華と咲き、香りの高い香となるのであります。「華皿に華を盛れて、諸仏を供養される」生活がまのあたり仰がれます。
つづいて、供養を行ぜられろについて『称讃浄土経』には、「一食の頃に無量の世界に至って、諸仏を供養する」とあります。一食は時間で言えば一念ですし、生活では食時の間、つまり短い時間をいいます。一念という短い時間に、十方無量の世界に至って、諸仏を供養するとあります。ちょうど太陽は動かぬけれども、その光が地上に来て照らすように、極楽浄土を動かずに十方に遍く至って供養される。また、太陽が同時に十方世界を照らすように、一念同時に十方の諸仏を供養しておいでになります。
人間の分別では考えられぬ夢のようなことですが、極楽浄土は本願の真実によって荘厳された世界ですから、本願のはたらきによって、おのずから分別をはなれて、如来の徳を行ぜられるのです。したがってその心根は、行じても行じたという執着のかげを宿さず平等の心をもって諸仏に捧げられるので、その徳の光が一念同時に、十方に遍く至りとどくのであります。この世からすれば、夢としか思えないことですが、一切万物と共感し感応道交する本来の生活を、象徴的に教えられたのであります。
お経には、「供養すると、もとの世界に帰って食事をとり、樹林や他の園を往き還りされる」とあります。ここには、供養される人々の食物がいわれております。私どもは食物というと、お米やパンを考えます。もちろん、生活に必要なものですが、それだけでは本当に生きることができません。それに対して聞法は、精神生活の身体の食物です。
もし聞法を食しませんと、生ききることもできませんし、死にきることもできません。極楽の人々は、供養することをご縁として、いつでも聞法心にたち帰り、聞法を食して静かな精神界を愛楽しながら、十方の仏を供養せられる。これが極楽浄土の人々の生活であります。
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