ただ聞くよりほかなき教え
<同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>
又舎利弗、彼仏国土、常作天楽。黄金為地。昼夜六時而雨量陀羅華
また舎利弗、かの仏国土には、常に天の楽を作す。黄金を地とす。昼夜六時に、天の曼陀羅華を雨る
極楽国土には、微妙な音楽が奏でられ、大地は黄金ででき、昼夜おのおの三度、天からん陀羅華が降りそそいでいることが説いてあります。天楽は、最も勝れた微妙な音楽といわれ、前の宝樹、宝池荘厳に自然に具する音楽荘厳であります。『称讃浄土経』には、「自然に常に無量無辺衆妙の楽が奏せられている。その音曲はやわらかでみやびやかな、願いを起こさずにおれぬような音声である」とあり、『無量寿経』には、「自然にひびく万種の音楽が奏せられている。その楽の声は法音でないものはない」とあります。
金子大榮先生は、「法音が浄土の体である」と、おおせになっておりますが、宝樹を吹く風も、池水のさざ波の青も、法音でないものはありません。如来の本願のお心が、最も勝れた微妙な音楽として奏せられ、そのままが法音であり如来のご説法となって、十方に響き流れ、この法音は私どもの裟婆世界に聞こえてきます。悪業煩悩によって心が乱れ、身を焼かれるようなお思いで生きている私どもに聞こえてくる音声は、やわらかくみやびやかで、乱れた心を調える慈悲の働きをもった音楽であります。
『無量寿経』には、その響きが聞こえて、極楽に生まれたいと願いを起こした人は、耳の働きが清らかにすみとおって、風のささやきからも、さざ波の青からも、何からでも仏さまの声が聞こえてくる。この声を聞く人は、心の乱れが静まり、もろもろの苦しみや患いが除かれるとあります。
その味わいを詩人の榎本栄一さんは「むかい風の自転車で ナムアミダブツ 風が申すには 念仏の衆生に会いたく 十万億土からやって来た」と、詠んでおられます。極楽は、こちらから行くとばかり思っていたが、十万億土から風の便りとなって、呼びかけてくださっているのでありました。愚痴を言いながら風に向かって自転車に乗るのが、この世の常ですが、榎本さんはその愚痴を、念仏の風にまかせて、心に極楽を楽しみ、極楽に遊んでおられるようであります。
つづいて極楽は、「黄金を地となす」とあります。『称讃浄土経』には、「大地は真金によってでき、それに触れると柔軟で香潔である」とあります。さきの音楽荘厳に対して、大地荘厳ともうしまくょうか。『阿弥陀経』は、お釈迦さまが、極楽を願わせたいというご親切によって、説かれたお経ですから、裟婆に準じて、大地は黄金であると説かれたのです。
黄金は、いささかの汚れもない、本願真実の心をあらわします。柔軟で高潔というのは、どんなものも平等に受け入れて、これを浄め育てる徳をあらわします。地は依りどころです。いささかの汚れもない本願真実のお心が大地となって、すべてのものを受け入れて支えとなり、よりどころになってくださるのであります
裟婆は分別によっております。分別は妄念ですから、真の依りどころとなりません。清沢満之先生は、「ちょうど浮雲の上に立って技芸を演じているようで、転覆を免れることができないことは、いうまでもない」と、おおせになりました。今日は物質的には豊かでも、不安で空しいのは、真の大地が見失われているからです。極楽は、私どもの大地になっていてくださるのです。生のよるところ、死の帰するところで、そこに帰りそこに身を立てなかったら、安心して生活することができません。
また黄金の大地に.昼夜三度ずつ、天から曼陀羅華が降ってきます。曼陀羅華は、悦意華、適意華、天妙華といわれます。この次に極楽の菩薩方が諸仏を供養することが説かれますが、この天妙華は供養するに必要な具を象徴するのであります。その華が天から降りそそぐとあります。降るというのは、雨が時に応じて降るように、供養の具が必要に応じて与えられることを意味します。
『無量寿経』の四十八願の第24願には、「もろもろの願い求める供養の具が、もし意のごとくならなかったら正覚をとらない」と願われ、その願いに報いて、供養しようと願い求めるなら、いつでも必要に応じて与えられるのであります。供養をしたいが金がないとか、物がないからできないということはありません。いつでもどこでも、自然に与えられるのが、極楽の生活であります。
旧ホームページからの移転