阿弥陀経に学ぶ 第34回

  ただ聞くよりほかなき教え
   <同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です>


上有楼閣、亦以金銀瑠璃 玻璃シャコ(綺麗な貝殻) 赤珠碼碯、而厳飾之。池中蓮華、大如車輪。青色青光、黄色責光、赤色赤光、白色白光。微妙香潔。舎利弗、極楽国土、成就如是 功徳荘巌

 上に楼閣あり、また金・銀・瑠璃・玻璃・シャコ・赤珠・碼碯をもってして、これを厳飾せり。池の中の蓮華、大きさ車輪のごとし。青き色には青き光、黄なる色には責なる光、赤き色に赤き光、白き色には白き光あり。微妙香潔なり。舎利弗、極楽国土には、かくのごときの功徳荘厳を成就せり。

 極楽には樹があり池があり、池には水が満ちみちております。岸の上には楼閣が建っており、七つの宝によって飾られてあります。天親菩薩の『浄土論』には、「楼閣から十方を見ると、広やかで障りがない」とあります。

 この楼閣によって象徴されていることは、極楽の家は、如来の法によって建てられ、家全体が聞法の道場になっていることです。この如来の家においでになる菩薩方は、法に照らされ聞法することを命として生活しておられます。ですから、善いことも悪いことも、成ることも成らぬことも、法を聞くご縁と受心入れ、法の智慧をもって咀嚼して、生きる喜びと力に転ずることができますから、広やかであり、障りがありません。

 これに対して裟婆の家は、自我によっておりますから、そこにいる人々は自我を固く執着しております。どういうことも自分中心にしか考えられません。したがって、都合のよいことは受け入れるが、悪いことは受け入れることができませんので、常に障りにしばられて、不安な空しい、心に閉ざされております。こういう愚かなありさまを知らせて、極楽を願わせたいという大悲から、七宝でできた楼閣を荘厳されました。家は帰る所ですから、心の安まる息づく所でありたいものです。それは大きいとか小さいとかということでなく、聞法の家であることが、教えられております。

 また池の中には蓮華が咲いております。その華の大きさは車輪のようです。青い色は青く光り、黄なる色は黄に光り、赤い色は赤に光り、白い色は白に光って、その香りは心も言葉もおよばぬほど、浄らかであると、豊かな味の深いお言葉で説かれてあります。

 それに対してこの世は光のない世界ですから、自分が青いと他まで青くしようとします。そして思うようになる人は善く、ならぬ人は悪い人にします。ですから、平和を願いながら常に調和が破れて対立し、争いを繰り返しているところに、人間の歴史の悲しさがあります。仏さまが人間の歴史の底を見通して、「青き色には青き光、黄なる色には黄なる光、赤き色には赤き光、白き色には白き光あり。微妙香潔なり」とお説きくださる、この深いお心に眼を開きますなら、真に調和のある世界が仰がれます。

 人間は異生者と言われ、それぞれ異なった個性をもった人々が集まっています。けれども、それぞれ光を放って、この世を飾っております。一軒の家でも、青色の人、黄色の人、赤色の人、白色の人と、一人ひとり異なっております。十人十色ですが、青は青色のまま、黄は黄色のまま、赤は赤色のまま、白は白色のまま光っております。しかも、青と黄と、赤と白という具合に、互いに照らし合いながら、命いっぱい生きているのですから、自分が青いからと言って、他を青くすることもできませんし、する必要もありません。

 私は、ある新聞で共同体についての特集を読んで、印象に残りました。このごろの若い人々は共同体、つまり心の通う人間関係を求めております。都会には同じ問題をもった人々がアパートを借りて、共同生活をしている。そういうグループが、あちらこちらにあるそうです。しかしそれが長続きしない。なぜかというと、人間のエゴによって他愛もない結びつきはこわれる。エゴが変革できなかったら、自立もできぬし、他人との共感もできない。

 また同じ問題を持った者でなく、老苦男女のいる社会に共感の場が開かれないと、本当の共同体ということはできない。それなら、いかにエゴが変革できるか、心ある人々は模索しているとありました。

 社会機構にがんじがらめになって、自分を失っている淋しさから、心の通う共同体を模索している人々のために、すでに仏さまは蓮華をもって極楽を荘厳して、この深い光の世界に心の眼を開けと、おすすめくださる思召がありがたくいただかれます。


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